「高校球児はこの夏にすべてをかけているから」というのは、メディアや周囲の大人がよく言う言葉だ。夏の大会前に選手を検診する整形外科医の中にも「3年生のエースには“これ以上投げたら危険だ”という状態であっても、なかなか“投げてはいけない”と言うことはできない。彼らはこの夏が最後なのだから。応急措置をして“気をつけなさい”としか言えない」という人さえいる。
他のスポーツにも同様の傾向は見られるだろうが、高校野球の場合「甲子園」があまりにも大きな目標になってしまったために、これを目指して頑張る高校球児を「崇高なもの」「かけがえのないもの」と過度に美化する風潮が定着してしまっている。
甲子園に行けなくて、地方大会で終わったとしても「もう野球ができなくなってもいい」と力投する姿は美しく、賛美すべきものだ――。こうしたセンチメンタリズムが、高校球児に無言の圧力となる。
本来ならば、高校球児の中から「僕は、プロやメジャーを目指しているから、毎試合先発完投はできません」「大学でも、社会人になっても野球をやりたいから、高校で肩肘を壊したくない」というような意見が出てもおかしくないのだが、日本の高校球界では、めったにない。
指導者が選手にかける言葉は…
桑田真澄氏はPL学園高校時代に「登板した次の日は練習を休ませてほしい」と言って、変人扱いされたということだが、こうした真っ当な意見が異端児の発言のように見られる文化がいまだに存在するのだ。
もちろん、誰の影響も受けずに高校球児が自分だけの判断として「どうせ最後だし、壊れてもいいから投げさせてくれ」というケースもあるだろう。その例のほうが多いかもしれない。しかし、そういう選手に指導者は「そうだよな」と言ってよいのだろうか?
指導者、教師が負っている責任は「学校や自分たちの目の前の栄光」ではなく「若者たちの未来」であるはずだ。だとすれば、自分の可能性を閉ざそうとする選手に対してかける言葉は「夢をあきらめるな、どんな形であれ野球を続けてほしい」しかないと思う。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら