しかし、これに一部の選手や親が「どうせ高校を出たら野球をやめてしまうのだから、故障してもいいから投げさせてほしい」などと反論するのだ。個人的な都合であり、本人や保護者が「壊れてもいい」というのなら、それでいいという考えもあるかもしれないが、高校野球は「部活」であり、公教育の一環だ。
スポーツ庁が制定した「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」には、「部活動指導員の任用・配置に当たっては、学校教育について理解し、適切な指導を行うために、部活動の位置付け、教育的意義、生徒の発達の段階に応じた科学的な指導、安全の確保や事故発生後の対応を適切に行うこと」とある。
部活をする前提には「安全の確保」があるのだ。故障のリスクがあるにもかかわらず「本人がいいと言っているから」という理由で続行させることなどあってはならない。教育の一環として行う部活で「ケガをしてもかまわない」という理屈は通用しないのだ。
日本の歪んだ「スポーツ観」
なぜこんな風潮がいまだに存在するのか?
1つには日本の「スポーツ観」が、著しく歪んでいることにある。スポーツは本来、「健康で文化的な生活」という「基本的人権」にもとづいて年齢、性別、身分、スポーツをする能力に関わらず、すべての人々が享受できる「権利」であるはずだ。
しかし日本ではスポーツは「世渡りの手段」のようになっている。高校部活でスポーツをする生徒のうち、卒業後もスポーツに関わるのは、プロや社会人などの選手や、指導者など「体育会系」の人だけだ。
それ以外のスポーツ部員の部活は「遊び、気晴らし」の類であり、卒業すればスポーツからは離れていってしまう。もちろん同好会やクラブでスポーツを続ける人はいるだろうが、それらもやはり「遊び、気晴らし」であり、本気のスポーツに比べれば等閑視される。
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