産みの親より、育ての親
産みの母親より、伯母である育ての母親と生涯暮らした有馬稲子さん。母子問題ではありませんが、3歳のとき別れたアメリカ人の実父の招きで49年ぶりに再会した前田美波里さんは、そのとき、泣くまいと決めていたのに涙が止まりません。
帰国する機中で彼女はさらに大泣きしました。「美波里のルーツなのだから会ってこい」と、母親と共に行くことを快く許してくれた義父の優しさと寛大さに対してでした(いずれも木村隆編「母よ」より)。
家族として心が通うということは、血のつながりとは別問題であることを物語っています。そうでなければ里親制度など、とうの昔に廃れていたでしょうし、里親や養親に育てられた人たちが愛情深い人間に育ち、社会で立派に活躍されている事実を、どのように説明すればいいのでしょう。
このことは血さえつながっていれば、何をしても家族だとは言えないことも示しています。
これも母子家庭ではありませんが、その気になれば最高の全寮制でも行かせられる世界の王室で、乳母制度を廃止して、母親である妃の手で育てるのがニュースになる背景には、何があるのでしょうか。
健全な自立の背景に健全な依存あり
これは古風な私の個人的考えで、一般論でないし、いろいろな考え方があるかと思いますが、人生80年としてわが子と喜怒哀楽を共に暮らせるのが12年しかないなんて。社会に出て恥をかかないよう、臨機応変にしつけることができるトレーニング期間が数年だなんて。子どもから見れば人生80年で、物心ついてこれからというときに家族から離されて、無償の愛情に包まれて安心して家族一緒に住んだ思い出が数年だなんて。何もかももったいない!と私は思ってしまいます。
幼いときから子どもを外に出してしまえば、アタッチメントに関するコラムで紹介しました渡辺久子先生の、「健全な自立には健全な依存がある」というお言葉にある、「健全な依存関係」を築くのがたいへん難しいと思われます。
全寮制で幼少期からほかの子どもや先生の中で一緒に生活するのは、幼くして社会性を育むよい機会になるかもしれません。ただ、一也くんが、自分が何者かを知り学ぶ前に、わざわざ母親の手で健全な依存関係を構築する機会をつぶすリスクがあることも心得ておきましょう。
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