だが1年くらいの月日が経つと、当時、兜町にあった渋沢の自宅に玉乃が訪ねてきた。玉乃は「悪かった」と渋沢に謝罪し、こんなことを話した。
「株式取引所での売買は博打であるといって、あなたと議論していたが、この間教えられて自分が誤っていたことを悟った」
なんでも政府の法律顧問として来日したボアソナード博士と議論して、「株式取引所を許可しないのは、人の知識の進みを抑えつけるようなもので、それは国家を富ます力にならない」と論破されたのだという。
渋沢は「それは立派なことで、それでは実際に行われるようにしなければなりません」と謝罪を受け入れ、協力して株式取引所の設立に動いた。そうして明治11(1878)年、兜町に東京株式取引所が開かれることになったのである。
岩崎弥太郎と大ゲンカして決裂
そんなある日、兜町の自宅に、またもや意外な客が訪れた。三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎である。渋沢とは会社経営の考え方がまるで違うため、渋沢が大蔵省にいたころは、自然と距離をとっていた。
渋沢は多人数の共同出資によって事業を経営していく合本主義をとったが、岩崎はまるで逆だった。「かかわる人数が多くなれば、理屈ばかりが横行して、事業が進まない」というのが岩崎の考えで、「事業は何でも1人でやる」という独占主義をとった。
そんな正反対の2人にもかかわらず、岩崎が渋沢の家にあいさつに訪れたのは、渋沢が実業家に転身したと知り、関係を築いておこうと考えたからである。
それ以来、2人は交友を持ったものの、考えがあまりに違いすぎた。
ある夜、岩崎から料亭に呼び出された渋沢。そこで、二人は大ゲンカをし、完全に決裂することになるのだった。
(文中敬称略、第8回につづく)
【参考文献】
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫)
幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)
木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書)
橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書)
岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)
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