銀行の経営に携わることになった渋沢だが、話を持ちかけてきた三井と小野がけん制し合っていることを知る。
これまで何度となく調節役をやってきた渋沢は、大蔵省に相談したうえで、頭取に三井八郎右衛門と小野善助の2人を置き、自らは監査役に就任。渋沢が、双方をまとめながら、明治6(1873)年、日本初の銀行となる第一国立銀行(みずほ銀行の前身の1つ)を発足させた。
だが当時は、銀行が何をするところかも知られておらず、そもそも「株式会社」に対する理解すらなかった。株主募集の広告文を書くにあたって、渋沢はまず銀行の役割について、できるだけ平易な表現で説明することにした。
「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れているシズクと変わりがない」
金融の知識がなくても、銀行の役割が理解できる名文だろう。しかも、この広告文の真の目的として、渋沢は大きな意識改革を促そうとしていた。
根強い「官尊民卑」がかつての失敗の原因
実は渋沢が第一国立銀行を発足する前にも、銀行のような事業はあった。徳川時代から続く両替商が中心となった為替会社である。為替会社は、預金・貸し出し・為替・金銀売買・両替などの業務を行っていた。だが、商人が金融制度をよく理解していなかったうえ、政府が介入しすぎて失敗。その背景には、根強い「官尊民卑」の風潮があったと渋沢は分析した。
まずは意識改革の必要があると考えた渋沢は、銀行を川に例え、さらに「資金は蔵の中や人々の懐の中に潜んでいるが、それを集めることで多額な資金になる」とし、銀行が機能すれば国家が繁栄すると強調した。
「貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての国の状態が生まれ変わったようになる」
一方で、みなから資金を集めて、必要な個所に流入するには、銀行が信用たる機関であることが大前提。渋沢は銀行員にこう説いたこともあった。
「銀行は他の商工業者よりも上位に立つものにして、人に重んぜられかつ名誉あるものだから、責任の重いことを絶えず心がけなければならない」
こうして渋沢は銀行の社会的地位を高めながら、同時に、銀行の果たすべき義務として、公開性と透明性にこだわったのである。
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