父の手伝いで14歳のときに始めた藍玉の買い付けでは、製造者をランク付けし、競争心をあおる試みを取り入れるなど、早くから商才を発揮していた渋沢(第1回)。多感な青年期に従兄弟の尾高惇忠やその弟・長七郎、渋沢喜作(成一郎)と出会い、攘夷思想に染まっていく(第2回)。「外国を打ち払うしかこの国を救う手立てがない」と、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを決意するが、長七郎の意見により計画は頓挫(第3回)。過去に培った人脈によって一橋家に仕官し、財政再建を進めた(第4回)。一橋慶喜が第15代将軍となると、将来性を買われ、パリ万博に随行(第5回)。滞在中に「大政奉還」の知らせを聞く。多くを学んで帰国した渋沢を待っていたのは、激動の明治維新だった。
静岡で生涯を送ろうと考えていた
パリから帰国した渋沢栄一。その足は、徳川慶喜が謹慎する駿河へと向かった。もはや崩壊した幕府側につくことも、かといって、新政府側につくことも、己の道ではないと考えたからである。帰国後、父に会って、こんなことを言った。
「今さら函館に行って脱走兵に加わる気もありません。また、新政府に媚びを呈して仕官するつもりもありません。これから前将軍の隠棲しておられる静岡へいって、生涯を送ろうと思います」
骨をうずめるつもりで駿河にわたった渋沢は、宝台院で慶喜と再会する。粗末な古寺の汚い部屋に通されると、そこには、やつれた慶喜の姿があった。思わず、「何と申し上げてよろしいか……」と渋沢は言葉を詰まらせるが、慶喜は「そんなことより、フランス滞在中の様子を聞かせてくれ」と気丈に振る舞ったという。
その後、渋沢は静岡藩から勘定組頭に任命されるが、これを辞退している。何も、落ちぶれた慶喜に見切りをつけたわけではない。むしろ、その逆であり、藩の負担にならないように、自活の道を切り開こうと考えた。
「静岡は小さいながら都会であり、それなりの商人も多数いる。資金を貸してその商業を一層盛んにすることはそれほど難しいことではなかろう」
そう考えた渋沢は、明治2(1869)年に「商法会所」を設立。ほかの地域から米を買い付けて、茶や漆器などの藩内の物産を販売した。一方で、商品を担保に資金を貸し付けている。いわば商社と銀行の両方を兼ねる業務を行ったといえるだろう。
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