渋沢栄一の暴挙「横浜焼き討ち」止めた意外な男

「合本主義」の下地を作った3昼夜の激論

若き日の渋沢栄一。年齢は20代後半とみられる(提供:桜堂/アフロ)
父の手伝いとして商いを経験しながら、幼少期から商才を発揮した渋沢栄一。前回(渋沢栄一を凄い読書家にした常識覆す師の教え)は、キーパーソンとの出会いが、青年期の渋沢にどれだけ大きな影響を与えたかを紹介した。尊王攘夷思想に染まった渋沢は、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを計画。父と縁を切ってまで、実行することを決意する。
もし、そのまま渋沢が一度決めた方針を貫いていたならば、「国家転覆を目論んで外国人を斬殺した人物」として、歴史的な評価は今とは大きく変わっていただろう。だが、渋沢は悪手を打つ寸前で、その手を止めた。短期連載第3回となる今回は、誰もが迎える人生の転換期で、渋沢がどんな思考プロセスにより決断したのかについて、お届けする。

攘夷計画の実行へ70人のメンバーが集まった

実家に迷惑をかけまいと父と縁を切った渋沢。いよいよ攘夷の計画を実行に移すべく準備を進める。決行日は、文久3(1863)年11月23日の冬至の日とした。メンバーは計画を立てた尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)と渋沢喜作(両者とも渋沢栄一のいとこ)、そして渋沢の3人を中心とし、渋沢が上京時に知己を得たメンバーを加え、約70人が集まった。

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荒唐無稽な計画内容を思えば、渋沢がこの頃から、人を魅了して協力をとりつけるのが得意だったことがよくわかる。

ただ、渋沢のそんな優れた点がこのときばかりは、危うい方向で発揮されようとしていた。

外国人を片っ端から斬殺するための刀も用意した。渋沢がのちにこう書いている。

「刀なども《ここで買い》《あちらで買い》と、尾高が五、六十腰、自分が四、五十腰用意した」

それぞれに竹やりも用意し、当日の役割分担も決まった。あとは決行日を待つのみとなり、9月14日、京都にいる尾高長七郎(惇忠の弟)にこんな文を届けるべく、飛脚を飛ばした。

「こういう計画を決めたので、役に立ちそうな人物なら何人でも連れて関東へ帰って来い」

幕府がいかに怠慢で、外国がいかに脅威か――。それを渋沢に教えてくれたのが、長七郎だった。計画を知れば、驚いて、喜び勇んで駆けつけるだろう。渋沢は得意な気持ちですらいたかもしれない。

計画を知った長七郎は、渋沢が思ったとおり、驚いて京都から帰ってきた。だが、開口一番に放った言葉は、あまりに衝撃的なものだった。

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