攘夷計画の実行へ70人のメンバーが集まった
実家に迷惑をかけまいと父と縁を切った渋沢。いよいよ攘夷の計画を実行に移すべく準備を進める。決行日は、文久3(1863)年11月23日の冬至の日とした。メンバーは計画を立てた尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)と渋沢喜作(両者とも渋沢栄一のいとこ)、そして渋沢の3人を中心とし、渋沢が上京時に知己を得たメンバーを加え、約70人が集まった。
荒唐無稽な計画内容を思えば、渋沢がこの頃から、人を魅了して協力をとりつけるのが得意だったことがよくわかる。
ただ、渋沢のそんな優れた点がこのときばかりは、危うい方向で発揮されようとしていた。
外国人を片っ端から斬殺するための刀も用意した。渋沢がのちにこう書いている。
「刀なども《ここで買い》《あちらで買い》と、尾高が五、六十腰、自分が四、五十腰用意した」
それぞれに竹やりも用意し、当日の役割分担も決まった。あとは決行日を待つのみとなり、9月14日、京都にいる尾高長七郎(惇忠の弟)にこんな文を届けるべく、飛脚を飛ばした。
「こういう計画を決めたので、役に立ちそうな人物なら何人でも連れて関東へ帰って来い」
幕府がいかに怠慢で、外国がいかに脅威か――。それを渋沢に教えてくれたのが、長七郎だった。計画を知れば、驚いて、喜び勇んで駆けつけるだろう。渋沢は得意な気持ちですらいたかもしれない。
計画を知った長七郎は、渋沢が思ったとおり、驚いて京都から帰ってきた。だが、開口一番に放った言葉は、あまりに衝撃的なものだった。
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