渋沢栄一の暴挙「横浜焼き討ち」止めた意外な男 「合本主義」の下地を作った3昼夜の激論

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「暴挙を起こそうという計画は大間違いである」

耳を疑うとはこのことだろう。あれだけ攘夷こそが日本を救う唯一の道だと訴え、幕府に逮捕されそうにもなった長七郎である。まさか計画に反対するとは、渋沢もほかのメンバーも想像すらしなかった。

10月29日の夜、もはや決行日まで1カ月を切るなか、尾高惇忠の家に主要メンバーが集まり、緊急ミーティングが開かれた。長七郎は、計画のずさんさをはっきりと指摘した。

「いまの70人や100人の寄せ集めの兵では、何もすることができない。万一、計画通りに高崎の城が取れたにせよ、横浜へ兵を出すことは思いもよらぬことである。すぐに幕府や近隣の諸藩の兵に滅ぼされてしまうことは明らかだ」

まっとうな意見である。さらに具体例を出し、計画を止めようとした。

「現に以前決起した十津川浪士のなかには、藤本鉄石であれ、松本謙三郎であれ、思慮才覚もある人がいた。しかしわずかに五条の代官所を占領したくらいで、すぐに植村藩に防ぎ止められてしまった」

誰よりも早く限界に気づいた長七郎

あれだけ攘夷に積極的だったじゃないかと、誰もが思ったことだろう。だが、それは違う。誰よりも積極的に行動したからこそ、その限界に誰よりも早く気づいたのである。

渋沢も簡単には引き下がらない。父親と縁を切ってまで実行を決意したのだから、当然だ。計画の無謀さを認めながらも、こう食い下がった。

「しかし、われわれがさらなる力をいますぐに持つような手立てもない。だからといって、その力をつける見込みを立てたうえで実行しようとなると、結局、いつまでも先延ばしになる」

無謀な計画でも実行することで、志を同じにする仲間が目覚めてくれる。そうなれば、各地で奮闘が巻き起こり、いずれ幕府を倒せる。日本の未来のために捨て石になる覚悟だと、渋沢は熱弁を振るい、こう言い切った。

「ことが成功するか失敗するかなどは天に任せておけばよい。ここでかれこれ論ずる必要などなく、ただ死を覚悟して決行するだけだ」

あくまでも計画実行にこだわる渋沢と、絶対に阻止するという長七郎の意見は、真っ向から衝突。「殺すなら殺せ、刺し違えて死ぬ」。お互いがそんなことまで言い出して、議論は平行線をたどった。

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