渋沢栄一を凄い読書家にした常識覆す師の教え 短期連載第2回、人生を大きく変えた出会い

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埼玉県深谷市にある渋沢栄一の生家の正門(写真:hiroshi/PIXTA)
今、注目を集める渋沢栄一とは何者なのか。連載第1回となる前回(500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった)では、渋沢が早くから商才を見せていたことを、幼少期のエピソードを交えて紹介した。しかし、優れた資質は、人生で掲げた大目標を叶えるためのパーツにすぎない。どんな人生哲学を持ち、自分の生涯で何を実現させるのか。それを突き詰めるには、人との出会いが何より重要となる。
多感な青年期において、渋沢は、その後の人生を決定づけるような、キーパーソンとの出会いを果たした。それは大きな喜びや生きがいをもたらすと同時に、渋沢の人生を大きく揺さぶることになる。短期連載第2回となる今回は、渋沢に影響を与えたキーパーソンと、その出会いによる逸話を紹介する。

従兄弟の尾高惇忠の一線を画す指導

渋沢が読書に夢中になりすぎて、両親からたしなめられたことは前回書いたが、それだけ本にのめり込んだのには理由がある。幼き渋沢に「本の読み方」を伝授した男がいたのだ。

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男の名は、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)。皆からは「新五郎」と呼ばれていた。惇忠の母・やへは渋沢の父、渋沢元助の姉にあたる。つまり、渋沢と惇忠は従兄弟だった。もともと、渋沢は漢文の読み方を父から教わっていたが、あるときにこう言われた。

「今後、読書の修業は私が教えるよりは、手計(てばか)村へいって尾高に習う方がよいだろう」

学問に優れた惇忠は自宅で塾を開いており、地元では、立派な先生という扱いを受けていた。手計村は、渋沢の自宅から数百メートル隔てた場所にある。以来、渋沢は毎朝、10歳年上の従兄弟、惇忠と一緒に3~4時間、書物を読むことになった。

惇忠の教育法は、従来よく行われていた漢文読解の指導とは、一線を画していた。

「漢文を丁寧に読ませて、暗唱できるまで繰り返す」。それがスタンダートな指導法だったが、惇忠は違う。本人が面白いと思う本を自由に読ませるようにしていたのである。

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