江戸で情報を見聞きし、海外の脅威にさらされている現実を知れば知るほど、渋沢は「この日本を何とかしなければならない」という思いを強くした。そのための同志を探すため、江戸でのネットワークづくりに渋沢は励んだのだった。
江戸から戻った渋沢は「どのようにして異国を打ち払って日本を危機から救うか」に心を砕いた。なにしろ幕府はあてにならない。思い出すのは、かつて代官から受けた屈辱的な仕打ちである。
腐り切った徳川幕府の目を覚まさせなければならない。渋沢はそう思い詰めた。
「ここは一つ派手に血祭りとなって世間に騒動をおこす踏み台となろう」
とはいえ、人数を増やしすぎると、攘夷の計画が漏れてしまう。長七郎は攘夷にかかわっていると疑われ、逮捕の恐れがあり、京へと逃れていた。
そのため、計画は3人のみで立案された。渋沢と尾高惇忠、そして、もう一人の従兄、渋沢成一郎である。その計画とは、高崎城を襲撃し、横浜を焼き撃ちにするというものだった。
「一足飛びに志を達しようとする」計画
計画に携わった渋沢成一郎のことを説明する必要があるだろう。幼名を「喜作」といい、従弟にあたる渋沢とは幼少期から時をともにした。渋沢は2歳年上の喜作のことをこう評している。
「私は何事にも一歩一歩着々進んで行かう(行こう)とする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しようとする投機的気分があつた」
3人が立てた計画は、まさにそんな「一足飛びに志を達しようとする」ものだった。何しろ、横浜を焼き討ちにして、外国人を片っ端から斬殺するというのだ。それだけではない。襲撃の前に、高崎城を乗っ取って兵を整えて、横浜への進軍も考えていた。
あまりに無謀な計画だが、純粋さは時に、信じられない暴走を引き起こす。3人の頭には「この日本を救わなければならない」という使命感しかなかった。後年、渋沢が500社あまりの経営に携われたのは、あふれんばかりのバイタリティがあったからだが、このときばかりはそれが裏目に出たといえよう。
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