論語を古いと思う人は本質が全然わかってない 孔子が直接ことばを書いて残していない理由
「お、おもしろい……これ」
ざっと20年ほど前、20世紀から21世紀に移り変わる頃、ある編集部から『論語』を翻訳しませんか、という依頼がありました。「世界の大古典」というような大きな企画だったと思います。そこでは、『聖書』や『コーラン』も登場する予定でした。
けれども、そのプロジェクトは、いつの間にかなくなりました。まあ、よくあることなんですが。
声をかけられたぼくは『論語』を読み、びっくりしたのです。お、おもしろい……これ。
『論語』なんていうと、確かに、ものすごく有名で、昔のエライ人はみんな読んでるし、というか、日本でも中国でも、ものすごく長い間、勉強するうえでの超必読文献だったし、その中の名言だっていまもずいぶん使われています。
「巧言令色(こうげんれいしょく)には、鮮(すくな)いかな仁(じん)」とか「十有五(じゅうゆうご)にして学に志(こころざ)し、三十にして立ち、四十にして惑(まど)わず」とか。もちろん、意味もなんとなく知っている。こういうことばを作った孔子先生という人は、まあ、人生のキャッチコピーを作った人なんだろう。その程度の関心しかなかったのです。
あまりに有名だと、妙な情報ばかり入ってきて、わかった気になってしまう。『論語』も孔子先生も、ぼくにとって、そんなものの代表だったのです。正直にいって「古い」と思ってました。親孝行をしろとか、君主を大切にしろとか、なにいってんの、って感じです。こんなものを読んで喜ぶのは、功成り名遂げた経営者の「おれスゴくね?」的伝記本の読者ぐらいじゃないか。なんとなくそう思っていたのです。
でも、ほんものの『論語』はちがいました。ぜんぜん、ちがう。
そして、もともとの企画がなくなっても、ひそかに、『論語』を現代語に「翻訳」する作業を続けていたのでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら