「機械論」と「有機体論」の2つの系譜
評論家の佐藤健志氏が、国家は、「政治的身体」として観念されるとしたうえで、新型コロナウイルス感染症に対して「自然的身体」はもちろん、文字どおり「政治的身体」をも守らなければならないという興味深い論考を展開している(参考記事:「疫病と自粛疲れから『国民の2つの身体』を守れ」「コロナ対策は『予防徹底は不可能』が前提だ」「『自国優先』にもグローバリズムが必要な逆説」)。
この「政治的身体」観は、社会を1つの有機体にたとえる「有機体論」としても知られている。
実は、社会科学の系譜には「有機体論」以外にも、社会を有機体ではなく「機械」のようにみなす「機械論」というものがあった。
「機械論」は、人間を物理現象における「原子」のように、あるいは機械における「部品」のように、独立した「個」として捉える。そして、そのような部品としての個人が集合し、一定の規律に従って行動すると、社会は1つの「時計」のように、各部品を自動的に調整して規則正しく動く。
社会をこのようにイメージするのが「機械論」である。「機械論」では、社会が、一定の原理に従って精密かつ自動的に動くものと想定しており、そこに予測不能で不規則な変動、進化あるいは成長といった概念が入る余地はない。「機械論」的な社会観は、極めて硬直的で静態的である。
そして、社会科学者の役割は、社会が内蔵する機械的な原理を見つけ出し、その原理が円滑に作動するように設計することである。それができれば、社会は原理に従って自動的に調整されるので、政府が介入する必要はない。
これに対して、「有機体論」における人間は、社会におけるほかの人間と関係を結び、相互に交流し、社会の中でしか生きられない存在とみなされている。個人は機械の中の部品ではなく、有機体の中の細胞のイメージなのである。そして社会は、生物のようにつねに動き、進化し、成長する。「有機体論」的な社会観は、柔軟で動態的なのである。
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