当時、静岡藩には旧幕臣がなだれ込んできて人口が増加していた。
ニーズを的確に読んだ渋沢は、商法会所の開設によって収益を上げることに成功。藩の役職者としてではなく民間人として、静岡の産業振興に貢献することができた。
商法会所を設立するにあたり、渋沢は官民合同の出資を募った。その理由をこう説明する。
「もともと商売というものは、自分一人だけの力ではこれを盛んにすることはできない。だから、そこは西洋で行われている共力合本法を採用するのがもっとも必要な急務であろうと思う」
共力合本法とは「個々人の財産を集めて1つにし、大きな事業を行う元手にする」こと。つまり、現在の株式会社制度だ。渋沢はパリで学んだ合本主義をさっそく、静岡藩で活かしたのである。地方の資本を合同させて商会を結成し、物の売買と金銭の貸し借りを行う――。そんな合本主義による1つの地方の商業モデルを、渋沢は静岡藩から広めようと考えた。
渋沢を中央に引っ張り出した大隈重信
だが、またも運命が動き出し、渋沢は中央に引っ張り出されることになる。ある日、東京の太政官に呼び出され、行ってみれば「大蔵省租税司正」という思わぬ役職を命じられた。まるで税金のことを知らない渋沢は、すっかり面食らってしまう。
「大蔵省には一人の知人も友人もいない。またその職務も少しも経験のないことだから、どうしてよいかさっぱり様子がわからない」
いったい自分を推薦したのは誰なのか。大蔵省を調査したところ、大輔という役職に大隈重信、少輔に伊藤博文という人物が、それぞれ就任していることが、明らかになった。実権を握っているのはどうも大隈らしく、今回の任命にも携わっているのだろうと、渋沢は考えをめぐらせた。
当初は断るつもりだった。なにしろ静岡藩での新しい試みはまだ始まったばかりだ。また、これまで何かと目をかけてくれた慶喜への恩もある。そしてなによりも、渋沢は税について知識がなく、期待に応えられそうにないと考えた。
大隈の自宅まで出向いた渋沢が、理由とともに辞退の旨を伝えると、大隈はこんなことを言った。
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