渋沢栄一を官僚に導いた大隈重信「驚愕の一言」 混迷の明治初期に生かされた渋沢の海外経験

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大蔵省内には「幕府を倒したぞ」と自慢する腕自慢の荒くれ者が勢ぞろい。煙草を吸ってお茶を飲みながら、ただ議論したり、かつての手柄を誇ったりするばかりで、これでは改革どころではない。

渋沢は人材について、次のような言葉を遺している。

「新しき時代には新しき人物を養成して、新しき事物を処理せねばならない」

渋沢は大隈に「大蔵省のなかに改革のための新局を設けてほしい」と提案。大隈も大いに同意して「改正掛」が新設された。渋沢は掛長となり、静岡藩士から優秀な人材をスカウトし始める。かつて一橋家でも注力した人材登用に、まずは手をつけたのだ。

前島密や赤松則良らを登用

渋沢はこのとき、のちに「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密や、「日本造船の父」と呼ばれる赤松則良らを改正掛に登用している。

「この局の人員は全部で十二、三人となりました。そのうち各自に得意の分野もあって、執務も自然とはかどってきて、とても愉快でした」

そう振り返る渋沢は意欲満々に、3日も4日も徹夜しながら、全国測量を企画し、租税の改正を推進した。明治4(1871)年からは、大蔵卿には大久保利通、大輔には井上馨が就任。渋沢は大蔵大丞という役職が与えられ、さらに辣腕を振るうことになった。

だが、改革には軋轢がつきものだ。愉快とばかりいっていられない事態がときに巻き起こる。

「あなたはハイカラな真似ばかりして、伝票などというこうるさいものを書かせるが、一体あれは何のためだ。手数がかかるばかりで始末におえん。従来の記帳で結構じゃないか!」

大蔵省内で出納正を務める得能良介が、渋沢にいきなりそう食ってかかった。物議をかもしているのは、新たに大蔵省で導入された「アメリカ式会計法」だ。

もともとは、伊藤博文がアメリカから持ち帰ったもので、その合理性に感心した渋沢が井上に提案。金銭の出納にも伝票を使用することになった。

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