父の手伝いで14歳のときに始めた藍玉の買い付けでは、製造者をランク付けし、競争心をあおる試みを取り入れるなど、早くから商才を発揮していた渋沢(第1回)。多感な青年期に従兄弟の尾高惇忠やその弟・長七郎、渋沢喜作(成一郎)と出会い、攘夷思想に染まっていく(第2回)。「外国を打ち払うしかこの国を救う手立てがない」と、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを決意するが、長七郎の意見により計画は頓挫(第3回)した。
「徳川の政府はもう長いことはない」
急遽、パリ行きが決まった渋沢栄一。きっかけは、パリ万博であった。各国の皇帝や国王が集まるなか、日本からは徳川慶喜の弟・昭武の参加が決定。徳川慶喜の推薦によって、随行メンバーに渋沢も選ばれたのである。
「ぜひお遣わしください。どのような苦労も決して厭(いと)いません」
突然の話にもかかわらず、その場で快諾した渋沢。喜びで浮ついていたわけではない。運命をともにしてきた、いとこの渋沢喜作にパリ行きが決まった経緯を報告したうえで、冷静にこう話した。
「徳川の政府はもう長いことはないから、亡国の臣となることは覚悟をしておかなければならない。もちろんこれは海外にいたからといっても同様である」
攘夷の思いを捨てて、徳川幕府に身を寄せたが、その幕府が滅びようとしている――。一橋家で実力が買われようと、予想外のパリ随行が命じられようと、渋沢は大局観を失うことはなかった。
いつも全体を見通しながらも、それぞれの局面では理想に拘泥することなく、より人生経験を積めそうな道を選択してきた渋沢。パリ滞在という絶好の機会から多くを学んだことは言うまでもない。
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