まず、初めて汽車に乗った。同行者のなかには、透明な窓ガラスに気づかずに、食べたミカンの皮を外に捨てようと何度も投げて、西洋人の乗客とひと悶着あった者もいたという。欧米と日本との間では、それくらい文明の差があった。
「国家はこのような交通機関を持たないと発展はしない」
鉄道の便利さに渋沢はそう確信するも「いつ日本にできるか」とは考えなかったという。想像すらできなかったのだろう。
また渋沢はパリで初めて「新聞」の存在を知ったほか、オペラ鑑賞も初体験している。さらに、渋沢の関心は、電灯や下水管といったインフラにまで及んだ。時間がいくらあっても足りなかったことだろう。
病院のあり方に大きな感銘を受けた
そして、のちの実業家としての活動に生かされたのが、病院の見学である。渋沢は、病室に立ち並ぶベッドの清潔さや、充実した併設設備に舌を巻いて、こう書き記している。
「薬局や食堂なども十分なつくりであり、滝のような水を頭から被るところや浴場もある。床下には蒸気パイプが通り、冬に各部屋を暖めている」
ちなみに「滝のような水を頭から被るところ」とは「シャワー室」のことである。渋沢は、病院のあり方自体に、大きな感銘を受けたようだ。
「この地では、病人はかならず病院にいって療養し、医療の過ちで早死にする者もなく、その天寿をまっとうできるという。これこそ人命を重んじる道というべきだろう」
帰国後も、その経験がずっと心に残っていたのだろう。渋沢は東京市養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の初代院長を務め、日本赤十字社、東京慈恵会など数多くの病院などの設立にも携わっている。
パリでの刺激的な毎日のなかでも、一歩引いた目を持ち続けるのが、渋沢である。そもそも欧米と日本の間でこれだけ文明に差が生じているのはなぜか、を思案した。
そんなとき、渋沢は、フランスの陸軍大佐と銀行家とのやりとりを目の当たりにする。銀行家が「こうなさるほうが利益になるでしょう」と言えば、陸軍大佐が「そうですか、それじゃそうしましょう」と、ごく普通に応じているではないか。
2人の間に上下の差がまるでない。渋沢は「これだ」と合点がいった。
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