幕府崩壊を予見した渋沢栄一がとった仰天行動 実業家としての土壌を作ったヨーロッパの経験

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船内でも渋沢の好奇心は存分に発揮された。ほかのメンバーが日本食を選ぶなか、渋沢は果敢に洋食に挑戦。パンにバターを塗って食べ、コーヒーを楽しんだ。

パリに到着したならば、すぐに髷(まげ)を切ってしまい、洋装に変えた。写真を撮って妻の千代に送ったところ、いつもはなかなか来ない返事が、このときばかりはすぐに来た。

「なんとあさましき姿になられたのか」

妻の不興も何のその、渋沢は「郷に入っては郷に従え」の精神でパリを満喫。博覧会の式典が終わると、徳川昭武とともにヨーロッパ各国をめぐることになった。

パリの地でも発揮された渋沢の調整能力

だが、ほかのメンバーで軋轢(あつれき)が生じることになる。問題となったのは、各国に連れていく人数である。幕府の役人に加えて、水戸からお付きの人びとと、7~8人も引き連れて歩くのは、どうも不格好だということになった。

そこで徳川昭武の教育係を務めた山高信離が、「ヨーロッパ周遊に連れていくのは半数にして、残りはパリに残って留学するように」と命じた。すると反発の声があがり、揉めに揉めた。そんなときに頼りにされるのは、やはり渋沢である。「どうしても随行したい」という彼らの言い分をじっくり聞きながらも、納得できないならば帰国するほかない、と諭した。

「本当に道理がないならば従わずに帰国するし、逆に帰国が残念ならば命令に従う。この2つからしか選べない」

そのうえで「留学チームと周遊チームに分けて、あとで役割を交代すればよい」と提案。一同はそれに同意して事なきを得た。渋沢の調整力はパリの地でも健在だった。

フランス滞在中に「外国奉行支配調役」という役職についた渋沢。パリ万博とヨーロッパ各国の訪問が終われば、昭武や渋沢など10人がそのままパリに留学することになった。パリでの留学生活は、渋沢にとって、まさにカルチャーショックの連続だった。

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