「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点
だが初対面の博多の豪商に「予の上洛まで待て」とは、いくら信長にしてもまだ言えない。とにかくこちらから会いに行くしかないのだ。
「楢柴肩衝」は信長を京都に誘き出すわなだった
援軍を要請する羽柴秀吉の早馬により、「天下布武」達成の最後の決戦たるべく、西国制覇のため自らも軍勢を率いて出陣を決意したところであり、ぜひとも「楢柴肩衝」譲渡の話だけはつけておきたい。
そのため、千宗易から島井宗室に連絡を入れさせ、「6月1日なれば、上様の御館に参上仕つる」との確約を得たのであろう。
かくして信長は、安土城から38点もの「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、最も無防備な形で本能寺に入ってしまったのだ。
この事実は単なる推論ではない。38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄2年(1593年)、堺の茶人・宗魯(そうろ)によって筆録された『仙茶集』の中に、【島井宗叱(宗室)宛て長庵の道具目録】が収録されており、その冒頭に「京ニテウセ(失せ)候道具」とあって、以下、件(くだん)の38点が記載されているのである。
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