「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点
 
茶会の相手は「公卿衆」ではない
本来は茶道研究家である私にとって、本能寺の変の前日に信長が主催した茶会は非常に興味深いものである。「本能寺の変の犯人は羽柴秀吉であって明智光秀は冤罪である」という、私の長年の主張を裏付ける重要な証拠と考えている。
その説明の前に、当時の織田信長の状況を振り返ってみたい。
天正10年3月、念願の宿敵・武田家を滅亡させた織田信長にとって、残る敵は東に北条家・上杉家、そして西の大名・毛利家である。いよいよ、念願の「天下布武」の達成が目前になっていた。
5月17日の羽柴秀吉からの早馬で毛利攻めを決意した信長は、その遠征に先立って5月29日、38点の大名物茶器とわずかな供廻りだけで急遽上洛して本能寺入りした。
ところが6月1日の雨の中、信長入京祝賀の名目で、公卿衆約40名が大挙して表敬訪問してきたのである。そしてこの公卿衆を相手に「本能寺茶会」を催したというのが通説になっているのだが、これはまったくの間違いである。
間違っている根拠を申し上げると、
・茶会に関白・近衛先久や、博多の商人も同席していたとあるが、殿上人と地下人(博多の商人)が同席することもありえないことである。
・陰暦6月1日はすでに盛夏であり、京の夏は蒸し暑く昼日中の茶会はありえないことで、「朝茶会」でなければならない。





 
         
         
        
       
        
       
           
          
         
          
         
          
         
         
         
         
        












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