「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点

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上記の『言経卿記』には、「数刻御雑談、茶子・茶有之、大慶々々」とある。いくら不意の客衆とはいえ相手はれっきとした公卿衆であり、数刻も雑談して粘られたのだから、軽いお凌(しの)ぎとして松花堂弁当のような粗餐と酒が軽く振る舞われ、後にお茶が出されたのであろう。だが決して「茶会」ではなかったはずである。

信長が招きたかった本当の客人

ではなぜ38点もの「大名物茶器」を大雨の中、わざわざ安土城から運んできたのか。その理由は実に明白である。博多の豪商茶人・島井宗室とその義弟の神谷宗湛に披露する茶会を催すためである。つまり、本能寺の変の前日の茶会の相手は、公家たちではなく、鳥井宗室・神谷宗湛だったのである。

2人は博多の豪商茶人であり、しかも島井宗室は、大名物茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の所有者として、つとに著名な茶人だった。

信長はすでに「初花(はつはな)肩衝」と「新田(にった)肩衝」という大名物茶入を所持していたのだが、この「楢柴肩衝」を入手すると天下の三大・大名物茶入がそろうことになり、まさに信長の垂涎(すいぜん)の的の茶入だった。

そもそも茶入が茶道具の中でも最高位の物とされ、大方は「肩衝」、「茄子(なす)」、「文琳(ぶんりん)」、「その他」に大別できるが、なかんずく「肩衝」がその第一である。「初花肩衝」、「新田肩衝」、そしてこの「楢柴肩衝」という銘のある三器をこの時点でそろって所持した者はおらず、この「楢柴肩衝」さえ入手すれば、信長こそ天下に隠れなき最初の大茶人に成りえたのだ。

島井宗室が5月中旬から京都に滞在しており、6月初旬には博多に向けて京を立つ旨の情報を信長に伝えたのは、千宗易(利休)だと思われる。

信長にしてみれば、玩具屋の前で物をせがむ小児さながら、宗室在京のこの機を逸したら当分の間「楢柴肩衝」入手の機会が遠のく、という焦りがあり、何としてでも宗室に会いたい。

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