「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相

「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点

ところが、6月2日早暁、明智光秀率いる1万3千の兵が本能寺を急襲して織田信長を、妙覚寺で護衛中の織田信忠隊ともども、同時に弑逆(しいぎゃく)してしまった。

いち早く凶変を知った秀吉は、詳細が漏れる前に毛利方と講和を結び、逆賊・明智光秀軍を追討すべく、世にいう「奇跡の中国大返し」を敢行して、山崎の合戦で明智軍を壊滅させた。

……以上が、世に紛れもない通史としてまかり通ってきた、歴史的事実である。

すべては秀吉の計略にすぎなかった

前述のとおり、秀吉が信長に来援を請う早馬を送ったのは5月17日。時あたかも徳川家康が安土城を訪れ饗宴中であったが、

「このたびこのように敵と間近く接したのは、天の与えたよい機会であるから、自ら出兵して、中国の有力な大名どもを討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」

と、光秀に同道を命令している(『信長公記』)。一方、毛利軍が陸続と備中入りをしたのが5月20~22日にかけてである。

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ということは、秀吉は高松城救援のための毛利軍がすべて着陣していないうちから、「毛利軍が5万計(ばかり)の大軍で」と、敵の軍勢を誇張して信長を謀っている。

信長を亡き者にしたいと考えていた秀吉にしてみれば、信長に何とかして安土城の外に出てもらいたい。城内より、城外のほうが殺害しやすいのは自明である。

そのきっかけとして、水攻めをしている高松城への援軍を要請して信長を呼び寄せるというのが格好のまき餌だったのである。

信長にしてみれば、秀吉救援のために中国攻めに向かおう、その途中で本能寺に寄り、かねてから目をつけていた「楢柴肩衝」を手に入れよう、ちょうどうまくいく、と計算していたことであろう。

しかし、すべては秀吉の、恐ろしいまでに考えられた計略にすぎなかった。信長は、それに見事にはめられてしまったのだ。信長の誤算、これが筆者の考えである。

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