豊臣秀吉の「接待」は、驚くほどスゴかった 「コスパ抜群!ハイリターン」その手法は?

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「秀吉が天下人」であることを、京都の朝廷や民衆が強く認識するようになった茶会がある(写真は豊臣秀吉の「黄金の茶室」の復元:skipinof / PIXTA)
豊臣秀吉が希代の「人たらし」だったのは有名だ。
信長に仕えた時代から、彼は武力ばかりには頼らず、持って生まれたこの「人たらし」の才を生かして出世を重ね、ついには全国を統一し天下人となる。
そんな彼の「人たらし」を最も発揮した舞台が「接待」だ。ただ、この「接待」には、単に相手を懐柔するにとどまらぬ、驚くべき狡猾さが潜んでいた。
いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「秀吉の接待術」を解説する。

末端の部下の給料をも気にかけた秀吉

2017年10月、豊臣秀吉直筆の手紙が新たに熊本県で発見されました。書かれていた内容は、「部下に俸禄(給料)を与えよ」というものでした。

手紙が書かれたのは、本能寺の変が起こる3カ月前の天正10(1582)年3月のこと。秀吉は備中高松城(岡山市)攻めに備えて、姫路城に在番していた時期に当たります。秀吉が家臣の小出秀政に宛てたこの手紙では、「ありけんハ(有○玄蕃?)」の俸禄として「五人扶持(ごにんぶち)」を与えるよう指示しています。

五人扶持といえば、5人を1年間養える程度の待遇で、当時の武士の身分としてはかなり低いものです。

こうした末端の地位にある部下に対しても、その暮らしについてつねに気を配っている秀吉の、まさに「人たらし」な一面が、この手紙からもうかがえます。

さて、このように敵味方を問わず人の心をつかむことに長けた秀吉ですが、その力は彼の行った「接待」、特に賓客を遇する「接遇」の数々においても存分に発揮されました。

今回は、秀吉の「接待」「接遇」をテーマに、その「本当のスゴさ」について解説します。

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