「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点

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そして結びに、差し出し日「6月1日」、差出人の楠木長庵(くすのきちょうあん)の在判で、

「三日月、松島、岸の絵、万里江山、虚堂痴愚(きどうちぐ)の墨蹟、大道具に依って安土に残置候。重ねて拝見仰付らるべく候」とある。

つまりこの『仙茶集』を信じる限りにおいては、信長が島井宗室に披露するためにわざわざ安土から、38点の「大名物茶器」を運んだことがはっきりとわかるのだ。

そして「三日月、松島の葉茶壷、虚堂痴愚(中国南宋・臨済宗の高僧)の墨蹟などは大道具なので今回は安土に残してきたが、またの機会に見せるであろう」と約束してもいる。

しかしこの「本能寺茶会」こそが、信長を京都に誘き寄せる最良のわなだったのだ。

信長上洛を促したものこそ、5月17日の、秀吉による「上様、御出陣要請」の早馬であった。

秀吉から信長に送った「早馬」が発端だった

信長に送った「秀吉の早馬」が、実は本能寺の変の真相に迫る重要な証拠なのだが、まず、通史における概略を列記してみよう。

3月15日、秀吉率いる中国方面軍が、2万5千余の大軍で中国攻めを開始する。4月15日に備中入りをした秀吉軍は、「境目七城」の内、冠山城・宮津山城を陥し、5月の初めに高松城を囲み、折から梅雨で水かさの増す足守川をせき止め、総長3キロにわたる膨大な築堤をして水を注ぎ込み、高松城を浮城にして兵糧攻めをする。時を移さず毛利三軍が、総勢5万の兵を率いて高松城救援のため着陣する。

大軍の来襲に驚いた秀吉が5月17日に信長に早馬を送り、信長の来援を要請する。信長も「天下統一」達成の好機到来と出陣を決め上洛し、6月4日京都本能寺を出立する旨、6月1日、拝謁の公卿衆の前で公言する。

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