桐野夏生が「日没」に記す、社会に充ち満ちる怪異 「女性と共に違和感も腹立ちも作品に表したい」
「表現の規制って、ものすごくデリケートな話ですね。私も児童ポルノは絶対にいやだし、AVなどの女性差別的な表現も本当にやめてほしいと思っています。でもその規制を、誰がどうやってどの基準でするのか、となると非常に難しい問題で、それは表現論にも関わる。でも、そういう論議なしに、いきなりこれはダメ、あれもダメと規制をかけていくと、ほどなく何かとすり替えられる危険性が絶対にある。だから、コンプラ、コンプラと言っていると、今に足をすくわれるから警戒が必要だ、という気持ちでいます」
「ハリウッド映画でも、多様性や人権への配慮で、これまでになかった多様な表現が進められている。そうやって目に見えるインパクトの強いものから教育していくことも大事なのは否定しないし、理解はあります。ただ、映像のようにビジュアルとは違って、本はやっぱりイメージの産物なので、そこは規制してほしくないと思っています。でないと、現実のひどさに負けると思います」
ラスト15行は、校了直前に加筆された
『日没』の結末は、ラスト15行があるのとないのとでは真逆のものになっている。実はこの15行、桐野が雑誌連載時に、校了間際に加筆したものなのだという。すっかり予想を裏切られた、大どんでん返しではないか、と熱くなるインタビュアーに、桐野は「それは申し訳ない」と笑う。
「最初は(結末に)希望があったほうがいいかなと。だけどあまりいい社会にはならない感じがして、これはやはりマッツが負けていく、苦い敗北のほうがいいなと思いました。それで、あの結末を、雑誌掲載の再校の段階で15行ぐらい書き足しました」
だがそれは決して、すべての書き手がこの手の”正義”の思想統制と戦っても勝てないというようなメッセージを込めたわけではない。
「やはりマッツが下世話な人間で、恭順したり転向したり、ふらふらしているから、彼女はこういう末路なのではないかと考えたんです。でも、作家もいろいろですから、さっさと恭順して逃げおおせる人もいるかもしれない。あるいは、高潔な作家は、こんなこと耐えられるかと、見事に崖から墜(お)ちて死ぬかもしれない。いろいろなタイプがいるだろうと思います。どんな高邁な思想をもっていても、弾圧を受ければ、日常生活の苦しみは尋常ではありません。だから、作家にもさまざまな反応があったほうが面白いと思いました」
「特に警告や警世などのメッセージを込めているわけではありません。これは小説作品、本当にフィクションです。小説というものは、答えを出すものではない。その世界に生きている人を描くものです。こんなことしていると、希望がなくなるよ、程度の話ですかね。軽いですね(笑)。確かに、読み終えた方に、暗い、怖いって言われました、こんな終わり方だと思わなかったって。マッツが無事に逃げおおせて、娑婆に戻ってということも、考えなくはなかったんですけども。そんなのハリウッド的だな、みたいな気がしちゃって」
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