桐野夏生が「日没」に記す、社会に充ち満ちる怪異 「女性と共に違和感も腹立ちも作品に表したい」

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プライバシーの侵害にも相当嫌気が差している、と、うんざりした様子で顔をしかめる。

「20年前くらいまでは、作家が賞を獲るとすぐに本名が出たんです。公表したくないなんて言う暇もなく全部出ていたし、新聞で作家特集が組まれると生年月日や星座まで、個人情報が全部出てしまってひどかった。うっかり携帯電話の番号が漏れて、新聞に掲載されてしまった作家さんもいるとか。若い女性作家は性的な関心を持たれて嫌がらせを受けるケースもあるでしょうし、これから表現をしていく世代には、怖くて、耐えられないほど俗悪で、いやらしい世界ですよね。それが世界中に広がっているのが現状です」

「小説は想像の芸術」

『日没』では、収容所生活で心身を追い詰められる主人公の作家・マッツ夢井が、ごく当たり障りのない薄っぺらで安易なフィクションを書いて、所長の多田に絶賛される場面がある。多田は拉致監禁した作家たちにサディスティックな方法で”矯正”を加え、「下品で薄汚い妄想」ではない「社会に適応した作品」「正しいことが書いてある作品」を書くよう求めるが、果たして”正しい小説”とは何を指すというのか。その愚昧さが際立つ、それ自体がフィクションでありながら社会のリアルな感情をあぶり出すやりとりでもある。

「私たち小説家は、全部虚構で包んでテーマを差し出しているわけだから、やっぱり虚構の強度、強さってあるんですよ。これはフィクションだからと逃げられる一方で、虚構を使って本当のことを書けるときもあると思います。人が書いたものは皆フィクションになります。ノンフィクションだって、やっぱりフィクションです。ファクトを書いていると思っている人も、ものすごくうがった見方をしていて、必要な情報を全部そぎ落として、自分たちに都合のいいものだけを取り上げていることもある。だから”ファクトの危険性”もあるわけですよね」

ファクトにこだわる層の中には、”自分たちの扱っているものが客観的真実である””自分たちは客観的である”という逆説的な主観が、ときおり存在する。だがフィクションの中に描かれている場面や感情のほうが現実よりもよほど”リアル”になりうるというカタルシスを知る者は、ファクトと呼ばれるものすら、それを見る側の視点や解釈次第だと理解している。

「この『日没』も現実に近いと言われて取材を受けることが多いけれども、最初はSF小説のつもりで書いていました。現実に近いというか、現実のエッセンスを入れたフィクション。それを、なるべく読者の目に見えるように、イメージしやすいように、と作家は描写します。小説とは、言葉を使って想像する芸術だからです」

小説の中で収容者である作家たちが強要されるものは、いわば”コンプライアンス社会”への過剰な順応であり媚(こび)だ。桐野は現代のコンプライアンスなるものについて「行きすぎじゃないかと思う」と話す。

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