桐野夏生が「日没」に記す、社会に充ち満ちる怪異 「女性と共に違和感も腹立ちも作品に表したい」
小説家の中にも、どっぷりとイデオロギーの沼にはまって”こうでなければ”とこだわる人もいれば、桐野のように感性に導かれて物語をさらりと着地させる人もいるということか。どこまでも優れた熟練のストーリーメーカーたる、桐野の嗅覚の鋭さを感じさせられる。
桐野から意外な言葉が出た。
「デビューは1993年なんです。その前はジュニア小説や漫画の原作を書いたりしていたので、結構長い執筆生活ですね。でも、最近は、集中力が落ちてますね。落ちてる。表現なんかも、昔は比喩がどうのこうとしょっちゅう考えていて、自分がエレベーターに乗ったときなんかも『エレベーターの函(はこ)のように固まった考えが、ただ上下するだけ』とか何とか、一生懸命比喩を考えていた時期があります。だけど今は、それは余計なこと、あまり必要ないことかな、と考えています。必要なことは、うまく伝えられるようなシンプルな言葉遣いで、シンプルな文章でというふうに。何かを削ぎ取って、単純化できたのかもしれないですね」
書き手としてのキャリアはもう30年近い。その間に、桐野ほどの実力のある書き手すらも揉まれ、削ぎ落とされ、研ぎ澄まされていったのだ。
「書きたいことを書けるようになったのかも」
「でもそれ、いいのかどうかはわからないですね。昔の作品を自分で読むと『えっ、こんなに凝って書いてる』なんてびっくりすることもあります。だから集中力がなくなった代わりに、まだ枯れてはいないけど、書きたいことを書けるようになったのかもしれないです。それも削ぎ落としですかね」
そして桐野は、さらに驚くようなことを口にした。「今は書くことが全然怖くはないですね、前は怖かったんですけど」。あの桐野夏生が、である。
「それこそ性的なシーンを書くのも怖かったです。家族もいるし、嫌じゃないですか、そんなエッチなこと考えてるなんて思われるのが(笑)。『柔らかな頬』のときは、幼児誘拐の話も嫌だったし。あとは『OUT』の解体する話もどうやって書いたらいいかわからなかった。必死に、鶏肉さばきながら考えたりして。書き表すことに、ものすごい勇気が必要だったんです。後で読むと、恥ずかしくなったりしてね。でも、その1個ずつ乗り越えているうちに、この年齢になっちゃって。常に、自分のなかで自分と戦っていたんでしょうね」
あの強烈なインパクトと貫通力を持つ作品群を書き上げてきた彼女は、独りで壁を乗り越える作業を繰り返してきたのだ。
「そうですね。昔は本当に夢中で書いていたので、自分の小説のなかで生きていました。本当にもう廃人ですよ。寝ても覚めても自分の小説世界のことしか考えてなくて。のめり込んじゃったんです。もう、どうでもいいんだもん、子供のこととかも放ったらかし。ライターズハイですね。我ながら本当に大丈夫かな、と心配になったような時期もありました」
そして「もう達観した」と笑った。「もう、そんな時期は過ぎ去って。自分がたいした作家じゃないとしても、それはそれで私の力の限界なんだから別にいいや、と思ってます。昔は必死だったんですよ。いいもの書かなきゃいけない、いい作家にならなきゃいけないって。でも今は、それは私の実力だからしょうがないよねと思ってる」。
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