「世界の山ちゃん」社長急死で妻が見せた"手腕" 経営素人から、全国68店舗を率いるトップに
葬儀が終わり、家に帰ってからも混乱は続いた。
取引先や経営コンサルタントが入れ替わり立ち替わり現れては、『世界の山ちゃん』オーナー夫人に、さまざまな話を持ちかける。後任社長の自薦推薦もあれば、信頼していたコンサルタントからM&Aで経営統合を図る、つまりは“久美さんでは経営は務まらない。ついては会社の身売りを”という話をもらい、口惜しい思いもしたという。
もとより、経営は素人という自覚があった。そんななか、代表取締役就任を決めたのは、重雄さんの死去1週間後のことだったという。
以前から続けていた店舗に掲示されるかわら版通信『てばさ記』の締め切りが近づいていた。悲しくてもそろそろ腰を上げなくては、締め切りに間に合わない。
「社員から、“こんなときですから今回はお休みしましょう”と言われたんです。私は“それはお客さまへの配慮?それとも私への配慮ですか?”と。私は“私への配慮ならばいらない。私は書きます”と答えました」
湧き上がる涙を堪えるようにして、久美さんが『てばさ記』の執筆を開始する。
完成した第190号は、“山ちゃん天国へ!ありがとう山ちゃん”と銘打たれ、お客さまや関係者すべてに感謝を伝えるとともに、重雄さんの魂と精神を受け継ぐことを伝えるもの、すなわち、久美さんが代表を引き継ぐことを宣言するものとなった。
「書いていて、主人への思いが半分以上だったとは思いますけど、会社への思いやお店への思いが、自分が思っていた以上にあったんだと感じて。今は私が(代表を)やるべきだと思ったんです」
生きたバスケットボールの経験
数日後、久美さんが本社3階の会議室に幹部十数人を集めた。そして、
「“私は経営はまったくわからない素人です。だから、ちょっと年をとった新入社員が入ってきたと思って一から教えてください。どうか力を貸してください”と――」
前出・横井さんがこう言う。
「ありがたかったです。知らない人が来て社長になるよりうれしかったし、安心しました。会長の遺志を受け継いだ社員が大勢いましたから“ちゃんと継続していける”そう思いました」
代表となることを選んだ久美さんの頭に浮かんだのは、全国制覇を成し遂げたときの経験と、クラブチームの監督として異例のスピード優勝を遂げたときに悟ったこと。すなわち、全員がまとまってそれぞれの役割を果たす大切さだった。