「プロ野球選手になれるなんて、これっぽっちも思っていませんでした」
小学校2年生で野球を始めた水野滉也(25歳)は、どこにでもいる野球少年だった。野球を始めた理由は、父と兄の影響。特別な思い入れはなく、ましてやプロ野球を目指すことなどありえなかった。
「当時、北海道の千歳市にいたんですが、その球場に松坂(大輔=当時は西武ライオンズ)さんがきたんです。そこでサインをもらったときに、プロ野球選手ってカッコいいな〜って。そのときに、初めてプロ野球のファンになりました」
父の仕事の転勤で札幌に引っ越しをした後も野球を続けたが、特別目立った存在ではなかった。中学校から硬式野球を始め、3年時にエースとなるも、依然有名選手にはほど遠い。ストレートの最速は128km/h。もちろん遅くはないのだが、将来プロ野球を目指すようなスーパー中学生ではない。高校は、同級生のツテを頼りに札幌日大高校に進学した。
高校1年生の冬にサイドスローへ転向。これにより、徐々に痛みが強くなっていたひじの痛みは軽減された。そればかりか、バッターの反応も明らかに変わった。ピッチャーとして少しずつ成長し、自らが最上級生となってからはエースを任された。それでも、ストレートの最速は135km/h。最後の夏は決勝戦まで進むものの、札幌第一高校に敗れ甲子園出場はかなわなかった。ここで、水野の野球人生はいったん幕を閉じかけていた。
「普通にやり切りましたし、燃え尽きていました……(笑)。でも、勉強で進学するには学力に自信がありませんでした。そんなとき、野球で進学ができるお話をいただいて、東海大学の北海道キャンパスでお世話になることにしました」
急成長の引き金を引いた”恥ずかしい”体験
大学1年生の春に、先発投手として活躍し、3勝1敗で新人賞を獲得する。「特別なことはなく、普通に投げてただけ」と言うが、労せずして活躍したことが後々になって響くことになる。
「最初にそこまで努力せずに結果が出てしまったので、なんとなくそのままやってしまったんですね。3年の春まで、そんな感じでした」
ここまでは、どこにでもいる普通の大学生。人生が変わったのは、大学3年生の春に初めて出場した選手権大会だ。ここで早稲田大学と対戦。当時の早稲田大学は、茂木(=楽天)、重信(=巨人)、先発投手に大竹(=ソフトバンク)を擁する盤石のチーム。結果は、5回コールド負け。完膚なきまでに叩きのめされることとなる。
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