「自分の中で、フォームも固まっていないし、体も万全ではない。そんな中、結果が”出てしまった“という感じでした」
即結果を出したドラフト2位を、放っておくわけにはいかない。直後に1軍に昇格し、デビュー戦は東京ドームでのジャイアンツ戦に決まった。
「突然すぎて、両親も応援に来られませんでした。結果は4回2/3を3失点。よくはありませんでしたが、ちゃんと投げれば通用しないわけじゃないなっていう手応えを感じました」
翌日に2軍行きが決まる。先発投手で、登板した翌日に登録を抹消するというのは珍しいことではない。こういう場合、状態が整うとまたすぐに1軍登録される。しかし、肩の状態に不安を抱えていたため、まずは回復に専念するために故障者リスト入りすることとなる。この辺りから、歯車は狂い始める。
「もしかしたら、故障者リストに入ったことで緊張の糸が切れたのかもしれません。全然よくならなくて、そのままシーズンが終わりました」
症状を重く見た球団は、水野を育成選手契約に変更。ただし、年俸を減俸することなく契約しているところに、期待の大きさがうかがえる。実際、回復次第、選手登録を元に戻すことにするため、背番号13はわざわざ空けてくれていた。
止まらない故障の連鎖
2年目。焦れば焦るほど、状態は悪くなっていく。痛みで5mも投げられないほど肩は悪くなった。この痛みは深刻で、手術に踏み切った。7月にようやく投げられるまでに回復したが、投球練習を再開できたのはようやく10月の後半。2年目のシーズンは終わった。
3年目。肩の状態はよくなったが、今度はひじの痛みが再発。2月のキャンプを終えたところでひじを手術した。2カ月で投げられるようになったものの、ここで肩の痛みが再発する。
「この辺りで、自信を無くすというか、なえてしまった感じがありました。もう、ダメかもしれないなぁって」
勝負の世界においては、1度でも弱気になってしまったら、そこを起点に下り坂が始まる。度重なる故障で出口が見えないつらさは、それを体験した人にしかわからないだろう。選手としてのキャリアに疑問を抱いた水野は、球団に相談した。
「球団は、トレーナーとして契約してくれる話をしてくれました。そのために資格が必要なら、それも球団がサポートしてくれると。ものすごく親身になって相談に乗ってくれてありがたかったのですが、ほかの可能性も見てみたかった」
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