「東大中退」「余命5年」42歳ラッパーの壮絶人生 ダースレイダーを支えたヒップホップの精神

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以来、受験勉強と平行し、ひとりで歌詞を書いてはラップの練習をする日々が始まった。そして合格発表の日、晴れて東大生となったダースレイダーに転機が訪れる。

「東大の赤門で合格発表を見届けた夜、不良予備校生の先輩に誘われて、高円寺のクラブ『ドルフィン』でラップしたんです。僕の合格祝いってことで。人前でラップするのはその日が初めてでした。キングギドラやジブさん(Zeebra)たちのアナログを使って、サビを先輩が歌い、僕がラップする。もう、しびれましたよ(笑)。世の中にこんなに楽しいことがあるのか!って。人生にスイッチが入った瞬間でした」

東大からのドロップアウト

“オン”になったスイッチに身を任せるまま、ダースレイダーは猛スピードでヒップホップの世界を駆けまわった。

ピンクの模様が入った眼帯は自ブランド「OGK」のものだ(写真:OCEANS)

夜は毎晩のように渋谷や六本木のクラブに出かけては朝まで遊び尽くした。日中は音楽雑誌を読みあさり、イベントのチラシを集めてはクラブ仲間と情報交換。インターネットのない時代だからこそ、自分の足で情報を集めた。それはとても刺激的で、今では失われたアナログ的なよさが確かにあったのだという。

「ひとつの夜を過ごすたびにパワーアップする感覚でした。20年以上前に注入された当時の空気感やエネルギーが、今も僕のなかでうずまいています。あのときの体験をもう1回できないか、人に体験させられないか。それが、今も歌う動機になってるかな」

遊びながら、ひたすらラップする。そんな日々を積み重ねていたダースレイダーがアルバムデビューをするまで、時間はそうかからなかった。23歳、彼はまだ東大生だった。

「大学在学中の2000年にP-VINEからレコードを出しました。その年は、ドラゴンアッシュやリップスライム、ニトロマイクロフォンアンダーグラウンドが続々とアルバムをリリースした年で、日本もヒップホップが市民権を得つつあった過渡期だったんですよね。僕も翌2001年にはエイベックスのカッティング・エッジに移籍、その後はビクターに行ったり、バタバタした時期でしたね」

すでに音楽で収入を得ていたダースレイダーは、「俺、このまま行けるんじゃね?(笑)」という甘い思いを胸に東大をドロップアウト。音楽一本の人生がスタートした。

ダースレイダーが自主レーベル『ダメレコーズ』を立ち上げ、KEN THE 390や環ROYといった新人ラッパーたちの曲を「1000円シリーズ」と題して売り出すと、タワーレコードのインディーズチャートで1位になるという現象が起きた時代もあった。

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