「それなら、そうするかと思って1978年の正月から毎日、千葉から会社に通いました。頼まれてもないのに会社に行って、『なんか仕事ないですか?』って聞いていました」
チケットの裏にハンコを押すなど雑用を任された。そして仕事の後は、連日会社の人たちと一緒にキャバレーに行った。お金はあまりなかったが、おごってもらえたので苦しくはなかった。
「そうしたら『そんなに好きなら入れてあげるよ』って言われました。実際、そこまでして会社に入りたかったかは疑問です。先輩に『入ったらいい』って言われたから漠然と従った感じでした。
当時は本当に働くことなんて、まったく考えてなかったんですよ。仕事しないで、ファン活動を続けていられたらいいなと思っていたんです。
ただそれでも、会社に入ってしまったら、単純にテレビを見ていたのとは変わりますから。自分の中でランクを上げなければならないと思いました」
当時、ビューティーペアの人気は高かったとはいえ、まだ女子プロレスは一般的にあまり知られていなかった。頑張れば、すぐに1番になれると思っていた。
「ただ会社は同族会社だったので、絶対にトップにはなれないんだなってすぐに気づきました。だったらクビにならないように、自分の好きなことをやろうと思いました」
一見さんでも楽しんでもらえるのがプロレス
会社での仕事は、自分で作らなければいけなかった。当時、社内には広報、宣伝の部署がなかったので自分でつくった。
「ほかの社員はみんな興行をやることが中心で、プロレスには興味がなかったんですよ。社内で興味があるのは自分だけでした。
タイトルマッチの記録すらなかったんです。プロレスとして認知されるには、公式の記録が必要です。新聞のスクラップブックだけはあったので、それを見ながら
『これが初代チャンピオンで、2代目はこれで、3代目はこれかな』
と自分で記録を作って、それをオフィシャルのデータにしました。
大会ごとのポスターも、自分がイメージするプロレスのポスターとは違ったので、文句を言い続けました。そうしたら『お前がやれ』って言われて、僕が作ることになりました。自分でなんとかラフを書いて印刷屋に注文しました」
そんな中、社長に
「お前はプロレスマニアかもしれないが、プロレスの興行というのは、初めて見に来た一見の客を楽しませるのが大事なんだ」
と言われた。
「当時は、何言ってるのかさっぱりわからなかったですね。でも今思えば、的を射た考え方だと思います。知識がない一見さんでも楽しめるというのはとても大事なんです」
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