20代前半は組織の中でもがいていた。
仕事自体は、そもそもが大好きなプロレスに関することなので楽しかった。
ただ、意見が上に通らないし、出世もできないからもがいていた。
「ストレスのはけ口として、『週刊プロレス』のターザン山本さんが開催する食事会に参加してました。若い子が集められて、毎日プロレスについて語ってました」
そのうちに
「原稿を書いてみませんか? 原稿と写真を持ってきたら載せますよ」
と誘われた。それで毎月1~5ページの記事を作った。
「学生時代はプロレスの記事を作りたいという思いもあったので、夢がかないました。楽しくてしかたなかったですね」
20代後半になると、長与千種とライオネス飛鳥によるタッグチーム「クラッシュギャルズ」のマネージメントをすることになった。
「26~27歳から、5年間は彼女たちに付きっきりでしたね。テレビ、ラジオ、ドラマに出たり、レコード収録などプロレス以外にも、たくさんの仕事がありました。いちばん忙しい時期は2年くらいで、自分の時間はまったくありませんでした」
ドラマ撮影時には、会社を朝5時に出てスタジオに向かった。朝7時から撮影がはじまり、昼12時に終わった後にプロレス会場まで2人を送っていった。
「いつも3人で行動してましたから、絆は強くなりました。
クラッシュギャルズのおかげで会社はうるおいました。出世したわけではないんですが、社内の立場が上がったというのが体感としてわかりました。『別格になったな』と思いました」
会社としては仕切られるのは面白くなかった
クラッシュギャルズが引退した後には、「メドゥーサ」という女子プロレスラーを売り出したが、あまり人気は出なかった。
その後、大仁田厚が持ち込んだ対抗戦を担当することになった。団体の枠を超えての対抗戦というのは全日本女子プロレスにとってははじめてだった。3~4年はずっと、交渉人としての仕事を続けた。
「仕事としては忙しかったですね。日々、対戦カードを考えたり、企画を考えたり。会社員でしたけど、あまり束縛されてはいませんでした。ある団体の代表者に
『ロッシーさんは企業内自由人だ』
って言われました。そのとおりだったと思います。小学校のとき、ずっと考えていたことを現実にやっている感じでした。当時は、やる興行、やる興行ヒットしていました」
ただ、会社としては、ロッシーさんに仕切られるのは面白くなかった。合議制になり、ロッシーさんの企画はなかなか通らなくなっていった。また、会社の運営も苦しくなり、給料を払うのにも四苦八苦していた。
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