61. これは事実上、〈将軍による改元〉を目指したものであったが、江戸幕府の衰退もありその後は叶わなかった
62. 明和9年(1772年)、江戸は大火事に見舞われ、約1万5000人もの死者を出す惨事となる
63. 巷では〈明和9年=めいわくねん=迷惑年〉に通じると噂が流れ、大火をきっかけに「安永」に改元された
64. 次第に幕府の力が衰えるなか、江戸時代最後の元号となったのが「慶應」である
65. この改元の際、14代将軍・徳川家茂は「改元は孝明天皇の意向にすべて従う」との意見書を提出
66. 慶應4年(1868年)には新政府軍と旧幕府軍の間で戊辰戦争が起こり、その結果、新政府軍が勝利した
67. 戊辰戦争で全国政府の座を奪取した明治政府は、同年9月8日に「慶應」から新元号「明治」に改元
【2018年12月18日19時30分追記】初出時、「慶應」の表記に誤りがありましたので、修正いたしました。
68. 同時に江戸まで続いた改元制度をあらため、〈天皇一代に元号ひとつ〉という「一世一元の詔」を出した
「明治」という元号はくじ引きで決定した
69. 「明治」という元号を考案したのは元越前福井藩主・松平春嶽で、彼は他候補も持って参内した
70. 史上初のくじ引きによる改元で、天皇自らが賢所(かしこどころ)で抽選し引き当てたのが「明治」だった
71. 「明治」は『易経』を出典とするが、過去の改元で計10回も候補に挙がっており、11回目での採用となった
72. さらに明治5年(1872年)には西洋に合わせ、旧暦(太陽太陰暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)へ移行
73. それに伴い元号や干支、皇紀に加え、キリスト紀元(西暦・世紀)の使用が始まるが民衆には浸透しづらかった
74. 1912年7月30日、激動の「明治」から「大正」へと改元されたが、近代以降、最も期間の短い元号である
75. 候補には「大正」をはじめ「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」があり、枢密顧問審議によって決定した
76. 生来病弱な大正天皇であったが1926年に病状が悪化。全国紙の各記者は新元号のスクープを狙っていた
77. 「大正」をスクープした朝日新聞に負けじと、努力を重ねた東京日日新聞(現・毎日新聞)は有力情報を入手
78. 同年12月25日に大正天皇が崩御すると、その数時間後には〈新元号は「光文」〉といち早く報道した
79. しかし政府が発表した新元号は「昭和」で、大スクープは一転して大誤報となり東京日日新聞社長は辞任
80. 第一候補だった「光文」をスクープされた政府が、第二候補の「昭和」に切り替えたともいわれている
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