21. 四文字元号は聖武天皇の皇后・光明子の発案とされ、中国で武周朝を建てた則天武后に倣ったものだった
22. 元号の制定手続きが完成したのは平安時代になってから。天皇の命を受けた大臣が文章博士らに案を募った
23. この新元号を考案する人を勘申者(かんじんしゃ)と呼び、彼らは中国の古典文献のなかから候補を探した
24. 当時の改元は、新天皇の即位改元のほか、在位中に縁起の良い動物や品が贈られた等の瑞祥改元も行われた
25. また厄運、疾病、地震、火災、大風、干ばつ、怪異や彗星の出現など、凶事をきっかけにした改元もあった
26. 平安末期の治承5年(1181年)、平氏が実権を握るなか平清盛の外孫・安徳天皇が即位し「養和」に改元する
27. しかし平氏と敵対する源頼朝は朝敵決定を放免されるまで、安徳帝の「養和」「寿永」の改元を認めなかった
28. 源頼朝は後鳥羽天皇即位によって「元暦」に改元されるまで、高倉天皇末期の元号「治承」を使い続けた
29. 一方、平家一門は元暦2年に壇之浦の戦いで滅亡するまで安徳帝を擁し、「寿永」の元号を使い続けたという
30. 鎌倉時代になると元号は強い政治性を示すようになり、武士が介入した後、朝廷が決定するようになる
最も使用期間が短かかった元号は
31. 日本の元号のなかで最も使用期間が短かったのは、鎌倉時代、四条天皇在位中の「暦仁(りゃくにん)」だ
32. 1238年12月30日、天変による改元で「暦仁」となったが、わずか〈2カ月と14日〉で「延応」に改元された
33. 鎌倉時代後期13世紀末に成立したとされる歴史書『百錬抄』によると、改元理由は「暦仁」の語呂の悪さ
34. 〈暦仁=りゃくにん=略人〉ということで、この世から人が略される(=死ぬ)という風評が発生したためだ
35. 続く南北朝時代には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)がそれぞれ独自に元号を制定。2つが並存した
36. 南朝の初代天皇・後醍醐天皇が選定した「建武」は中国・光武帝が後漢を復興させたときの元号にちなむ
37. 〈武〉という漢字は争いごとを連想させることから、不吉文字として元号にはあまり使用されない
38. しかし南北分裂の「建武」の時代は、あえて軍事力を誇示するために〈武〉という漢字を使用したとされる
39. 室町時代に入ると、将軍が〈吉書始〉と呼ばれる儀式を行い、朝廷が定めた新元号への改元を宣言した
40. その宣言とともに武家は新元号を使用。そのため元号選定には武家の影響力がとても強かったといわれる
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