41. 特に三代将軍・足利義満以降、影響が強まったが京都の室町幕府と対立する鎌倉府が改元を認めない事態も
42. また応仁の乱などで朝廷と幕府の関係が乱れると、朝廷による改元と幕府の吉書始の間が開くこともあった
43. そのため新元号と旧元号の両方が使用されるなど、数々の混乱を招いた
44. 一方、室町時代には比較的長く続いた元号が多いが、なかでも「応永」は〈33年10カ月〉も続いた
45. この時代に元号が長く続いた理由として、公家たちが戦乱を避けて地方に避難していたことが挙げられる
46. 戦国の時代に入り、元号を制定する勘申の適任者がいなかったため、改元しようにもできなかったのである
47. 元亀4年(1573年)7月、織田信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、直後に「天正」への改元を主導
48. 信長は公卿や朝廷を通じて改元に成功するが、これは織田政権のスタートを象徴する出来事となった
49. その後、豊臣秀吉が政権を握るが、この時期の改元はあくまでも公家側と武家側の意志の一致が必要だった
50. 豊臣政権においてそれが成立したのは、後陽成天皇の即位と豊臣による全国平定が重なった「文禄」の改元
51. そして京都などで地震の凶事が相次いだことによる「慶長」への改元のみであったとみられている
52. 豊臣政権は自己の権威維持を図るため、秀次が自死した文禄4年と、秀吉が病死した慶長3年に改元を要請
53. しかし朝廷側はこの二回の改元要請を拒み、豊臣政権は急速に力を失っていくのである
54. しかし民衆にとっては元号より〈干支〉や〈十二支と十干を組み合わせた60年周期の暦〉が一般的であった
55. 江戸時代に入ると、幕府によって出された「禁中並公家諸法度第八条」により徳川幕府が元号決定に介入した
56. 改元に際して、朝廷は新元号の考案はするものの、その新元号を実際に施行する権限は江戸幕府にあった
57. 朝廷のある京都でも同様で、江戸から派遣された使者が京都町奉行に改元の通知を行い、町奉行が町触を実施
58. 京都の役人等は事前に改元の事実を知っていたとしても、町触が出る前に新元号を使うことは禁じられた
59. 1716年、七代将軍・徳川家継の死に伴い元号が「正徳(しょうとく)」から「享保」へと改元された
60. 当時は中御門天皇の治世であったが、八代将軍・徳川吉宗率いる幕府側が改元の決定から日付までを指定
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