《若手記者・スタンフォード留学記 16》“英会話”は二の次でいい。本当に大事なのは“英作文力”
先週のアメリカはサンクスギビング(感謝祭)のお祭りムード一色。大学も1週間の休みとなりました。とくに、サンクスギビング当日はあらゆる店が閉店となり、夕食はみなでターキーを食べるというのが伝統的な流儀です。
当日、優しいアメリカ人の友人2人が私を自宅に誘ってくれたのですが、パーティーにかまけている余裕は私にありません。朝から晩まで、図書館にこもり、しこしことレポートの執筆です。夕食は、みながターキーを食べる中、一人自宅でうどんをすすっていました。この青空が広がる西海岸で、最も陰鬱なサンクスギビングをすごした人間の一人であることは間違いありません(笑)。
なぜ、そんなに忙しいのかというと、1学年2学期制を採る一般的な大学と違い、スタンフォードは1学年3学期制(秋学期、冬学期、春学期)を採っていますので、ちょうどサンクスギビング明けの週が、秋学期の最終週になるのです。そのため、この1週間の休みは、最終レポート提出に向けた正念場となるわけです。とはいえ、アメリカ人の学生は、この休みを利用して、実家に帰省したり、旅行に出かけたりするのですが、そこまで効率的ではない私には休む暇などありません。
それにしても、なぜ課題にこうも時間がかかるのでしょうか? その答えは、私の英作文力が低いからに他なりません。
日本人は本当に「読み書き」ができるのか?
日本人は、「読み書き」はできるけど、「話す聞く」は苦手、とはよく言われますが、この通説は疑わしいように思います。
日本人の英語を読む力は、決して低くありません。受験勉強を真面目にやれば、読む力はかなりつきます。私も米国に来て、1年以上が過ぎましたが、読む力は確実に上がっているなと感じます。教材は、政治・経済分野であれば、ほとんど辞書なしですらすら読めますし、雑誌や新聞記事を読むスピードも結構速くなりました。
ざっくり言うと、留学前は、英語を読むのに日本語の5倍くらい時間がかかったのが、今は約3倍というイメージです。毎週無料で、80歳の紳士に英語の個人レッスンをしてもらっているのですが、彼は、貧弱な英会話力の私が難しい本を軽々と読むので、目を丸くしていました。知識の吸収という点では、語学のハンデは軽くなってきました。
しかし、英作文となると、途端に力が落ちてしまいます。
レポートを書いていてイライラするのは、内容を考えるという本質的な要素より、どう表現するかというスタイルの部分に多大な時間を取られることです。長いレポートのときは、提出する前に2度もアメリカ人に添削をしてもらうので、日本語で同じことを書くのと比べ、5倍以上は時間がかかります。しかも、悲しいことに、何回レポートを書いても、文章がうまくなっている気がしないのです(苦笑)。幸い、レポートの成績という点では、先学期あたりから、「A」(日本の「優」)か「Aマイナス」を安定的にとれるようになってきたのですが、アメリカ人の優秀な学生は軽々と「A」をとるので、自慢にはなりません。
今になって、英作文に苦戦している理由。その一つは、大学入試の欠陥にあります。
私の母校である、慶応大学湘南藤沢キャンパスの入試は、英文読解の難しさには定評があったのですが、英作文はゼロ。私が受験した大学はいずれも英作文の課題がなく、英作文を必死に勉強した記憶がありません。そのツケが今回ってきて、大学入試の構成どおりの英語力になってしまっています。
もう一つ、最近実感するのは、英語の場合、「読む力」が「書く力」に転化されにくいということです。母語である日本語の場合、本を読んで、新しい語彙や言い回しに出会うと、その1、2割は自然と頭の中にインプットされます。ただ、英語の場合、読めども読めども、その語彙が自然と身につかないのです。私の場合、読める語彙が100あるとすると、その内で、書ける語彙は20~30くらいかもしれません。
語彙の豊富さというのは、人間の思考の幅を決めますから、英語だと必然その幅が狭くなってしまいます。日本語力と外国語力が比例するとは良く言われますが、むしろ母語力が高い人ほど(自分のことをいっているわけではありません(笑))、母語と外国語の差にいらだって、外国語の勉強が嫌になってしまう可能性もあります。