しかし、1950年、社長勇退を機に住太郎氏がフランスのボルドーに旅行をしたところ、日本のぶどう酒業界の先行きが暗いことに気づきます。現地では、ぶどう酒にはるかに適したブドウが低廉なコストで栽培され、品質、価格、どれをとっても日本のぶどう酒は太刀打ちできません。将来貿易が自由化されれば、海外の良質なぶどう酒が日本市場を席巻するのは目に見えていました。
帰国後、住太郎氏が考えたのが、日本でしか造れないお酒でした。
1. 国内ではあまり手掛けられていない商品であること
2. 海外にはない日本独自の商品で、将来、海外でも勝負できる可能性があること
3. 突飛なものでなく、身近で親しみやすい商品であること
この3条件に合致したお酒、それが梅酒でした。梅の生産は、質量ともに日本が世界一。また梅酒は300年ほど前の江戸時代の文献(『本朝食鑑』)にその製法が記されているほど、古くから知られています。さらに、近隣の和歌山県は全国一の紀州梅の産地です。梅酒製造こそが天命だと思い、1959年から製造を開始します。
しかし当初は、販売に苦労しました。酒屋に売り込んでも、「そんなもの売れないよ」と門前払い。梅酒は家で作って家で飲むもの、という固定観念があったのです。ようやく店に置いてもらっても、売れ行きは芳しくありません。店頭でほこりを被っている自社商品を拭きに行くのが仕事だった、当時営業で苦労した社員はそう回想します。
会社が潰れるまでCMを打つ
それならば、と次に打った手が、冒頭に述べたテレビCMでした。金銅和夫氏は「やるなら会社が潰れるまでCMをずっと打ち続けよう」と決意します。最初は社名を覚えてもらうよう“蝶”の語呂合わせで漫才のミヤコ蝶々さんを起用しました。
しかし、残念ながら肝心の売り上げが伸びず、社内からは「また社長の道楽が始まった。もっと儲かる商品の宣伝をすべきでは?」と厳しい声があがります。春、一斉に特売した商品が秋には返品されてきます。そんな厳しい状況を我慢できずに退社する社員も多く、最後には会社と梅酒を信ずる社員だけが残りました。ただそれが逆に、梅酒造りに全社一丸となって邁進する体制につながったと言います。
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