ジャズのある到達点「カインド・オブ・ブルー」 マイルスの朝礼暮改が生んだ奇跡

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マイルスは1950年代を通じてハード・バップと呼ばれる即興を旨とする新しいジャズのスタイルを主導します。ジャズ専門レーベルのプレステッジでは、俗にマラソン・セッションと呼ばれる伝説的な録音により『クッキン(Cookin')』『リラクシン(Relaxin' )』『ワーキン(Workin' )』『スティーミン(Steamin' )』というing型を表題にした4部作を発表します。いずれ劣らぬ傑作です。

ところが、マイルスという音楽家は、世の評価が高かろうが、パターン化した演奏と決別したいと思うのです。

「単にソロを吹き流すプレーにはうんざりだった」と、マイルスが述懐しています。

そして、新しい響きの指針となったのがラヴェル的な音創りでした。これをジャズ的語法で言えばモード奏法です。和音の制約を超えた自由な調べを可能とします。進むべき道が見えて来ました。そのためには、マイルスの思いを共有し美しい音楽に結実できる音楽的パートナーが必要です。

それがビル・エヴァンスでした。

ビル・エヴァンスとのハロー&グッドバイ

「ある日、電話が鳴った。受話器を取ると、マイルスだった。私はそれまでマイルスと話したことはなかった。彼は『マイルスだ、マイルス・デイヴィスだ。今度の週末、フィラデルフィアっていうのはどうだ?』と言った。私はその場で気絶しそうになった」

と、ビル・エヴァンスがマイルスとの出会いを語っています。時は、1958年4月。マイルスは、上述のプレステッジから世界最大のコロンビア・レコードに移籍し飛ぶ鳥を落とす勢い。

一方、ビル・エヴァンスは、クラシック音楽の基礎を持つ実力十分のピアニストで、職業としてジャズを弾いていました。が、いまだ無名。休日には、ラフマニノフ、ベートーヴェン、バッハを弾いていたといいます。

記録によると、ビル・エヴァンスは、1958年4月25日、ニューヨークのカフェ・ボヘミアでのマイルス楽団の公演に初めて参加します。以来、マイルス楽団の正ピアニストとして、濃密な時間を過ごします。マイルスとエヴァンスの最良の共演といえる「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が『ジャズ・アット・ザ・プラザ第1集』で聴けます。

ジャズの主流が上述のハードバップにあるとき、静謐な中に浮かび上がるマイルスのミュート・トランペットに寄り添うエヴァンスのピアノは、それまでのジャズとはまったく異質です。新しい扉が開く予感です。しかし、エヴァンスは、11月16日のヴィレッジ・ヴァンガード出演を最後にマイルスのもとを離れます。結局、マイルス楽団在籍は7カ月で終わりました。

なぜでしょう?

エヴァンスだけが白人であるがゆえに、ほかの楽団メンバーやクラブ経営者などとの間でいさかいが絶えませんでした。この時期、アメリカ社会には人種差別が公然とありました。それゆえ、ジャズの世界では黒人による白人に対する逆差別が横行していました。黒人街のクラブに出演すると身の危険まで感じたそうです。

また、エヴァンスの音楽がクラシックを基礎にしているため、ブルースを土台にしたほかのメンバーとの調和が難しい面もありました。さらに、エヴァンスは貴族的な雰囲気をまとっていましたが、実は麻薬常習者でした。かつて麻薬禍で苦労したマイルスは麻薬には厳しかったのです。結局、マイルスは苦渋の決断でエヴァンスを解雇します。

そして、後釜にはウィントン・ケリーが座ります。彼は、ハード・バップもモードも弾けるオールラウンダーでしたから。

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