出世という言葉を、最近、口に出したことはありますか?
「出世して、親を喜ばせたい」
「いい家を買って、子供を大学に行かせる」
自分だけでなく、家族も望んでいる希望……出世には、昔も今も変わらず、そういう響きがあります。
日本における「出世」の歴史自体は、そう古くはありません。江戸時代までは身分秩序の社会で、出世ではなく「世に認められ、一人前になる=立身」こそ、誉(ほまれ)と認識されていました。ところが明治に突入し、身分社会が崩壊すると、誰もが「上昇志向=出世」の志を持てる時代に。努力による身分の移動が可能になり、
「学問を志して、官僚を志す」
と「立身出世」という呼称が用いられるようになりました。明治政府も「身分相応」ではなく「実力相応」の時代をあおり立てた政府文書を発して、“野心解放”を促しました。努力して社会的地位を得ることは、後ろ指を指されることではない。むしろ、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』の登場人物のように、駆け上がることこそが美学でした。
現在は「立身」が抜け落ちてしまった感じもありますが、そんな出世について、今回は考えてみたいと思います。
バブル世代vs.ゆとり世代の出世感
当方の世代、バブル崩壊までに入社したビジネスパーソンたちは、同期と競争して出世することをいとわない傾向があります。出世こそが仕事の動力源と言い切る人もいました。同期で1番に課長になりたい。それが無理なら●●君よりは早くなりたい……と競争意識をあおられたものです。
「あなた、出世競争で負けたら、恥ずかしくて街を歩けません」
と、家族に扇動される場面を、TVドラマでもよく見たものです。おそらく、その最後の世代が半沢直樹かもしれません(半沢氏の奥さまは出世に関心が低かったようですが)。当方が大学を卒業して入社したリクルート社も、激しい出世争いのある職場でした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら