安:最初に渡ったのはアメリカで、2002年のことでした。1年ほど現地のチームでプレーしてから再び日本へ戻るのですが、正直なところレベルの違いを肌身で感じたことで、日本選手権を戦っていても心の底から挑戦している実感が得られなかったんです。そこでアテネオリンピック(2004年)の翌年から、まずオーストラリアのリーグで戦い、それからイタリアのセリエAに移り、なんだかんだ計5年ほど海外でプレーしました。
乙武:特にイタリアでプレーするというのは、この競技では日本選手初でした。
安:そうですね。だからこそ挑戦する意味があると考えて、特にあてもないままイタリアへ渡り、現地のチームに直談判したんです。
乙武:単に勝利を味わいたいだけなら、日本でプレーしていれば圧倒的な立場でいられたわけじゃないですか。でも、それだけでは満足できなかったということですよね。
安:僕らにとって最も輝ける場は、やはりパラリンピックのコートです。そこで活躍するためには、日本一で満足しているわけにはいかないんですよ。海外のトップリーグを渡り歩いて、もっと過酷な環境で揉まれる必要があると常々感じていました。
肌身で感じた海外リーグでの過酷な争い
乙武:私も昨年は1年間、海外を放浪していましたが、やはり日本の常識は世界の非常識と言いますか、これまで当たり前だと思っていたことが通用しなかったり、想定外のことがたびたび起こったりしますよね。安選手にとって、最も想定外だったことは何でしたか?
安:ただバスケがうまいだけでは通用しないということですね。というのも、リーグ戦で登録されるのは12名で、そのうちプロの枠は6名。さらにセリエAではそのうち、欧州以外の選手は2名しか登録できないルールがあるんです。そのため競争が熾烈で、誰も彼も皆、生活を賭けて必死に向かってくる。多少荒っぽい手を使ってでも相手を引きずり落とそうとするのは日常茶飯事ですから、キャリアや年齢にかかわらず、そうした連中に真っ向から争える勇気がなければ、とても生き残れないんです。
乙武:日本では何よりチームワークが大事だと言われますが、向こうではチームメイトでさえ生活を賭けたライバル。蹴落とし合いなんですね。ちなみに言語は不自由しなかったんですか?
安:もちろん言葉の面でも文化の面でも、不便はたくさんありました。コミュニケーションの十分に取れない相手と戦い、寮では一緒に暮らしていかなければならないわけですから、当時はいかに生活からストレスを排除して競技に集中するか、ということばかり考えていましたね。
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