
車いすバスケから引退した背景とは?(撮影:友清 哲)
14歳のとき、左足股関節骨を治すために受けた手術に医療ミスが発生し、以降の人生を障害者として生きることとなった安直樹選手。当然、大きなショックを受けたものの、心身ともに逞しく再生し、ジュニア時代から車いすバスケのトップ戦線で活躍するまでになりました。
その後、日本選手として初めてイタリアリーグでプレーし、車いすバスケを「イスバス」の通称で世の中に広めた立役者でもある安選手ですが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、20年以上のキャリアを持つ車いすバスケから引退を表明。車いすフェンシングへの転向を表明したのは、2015年のことでした。
トップ選手の異例の挑戦。その背景にはどのような思いがあったのか? 乙武洋匡が直撃します。
車いすバスケ時代、海外でのプレーを望んだ理由
乙武洋匡(以下、乙武):安選手と初めてお会いしたのは、2011年の「マルハン World Challengers」でしたよね。パチンコ機器メーカーのマルハンが主催するアスリート支援の公開オーディションで、私はその審査員でした。当時の安選手は車いすバスケの選手で、まさかその数年後に車いすフェンシングに転向しているなんて、夢にも思いませんでした(笑)。

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安直樹(以下、安):そうでしたね。あれ以来のご縁で、こうしてたびたびお話しさせていただけるのは嬉しいことです。
乙武:安選手との初対面はよく覚えていて、会場のトイレですれ違ったんですよ。なんだかイカツイのが来ちゃったなと体を硬直させていたら、「今日はよろしくお願いします!」と爽やかにあいさつをされて、その腰の低さに驚いたんです。
安:あの頃、僕はスキンヘッドでしたからね(笑)。競技の性質上、体も今よりもっと大きかったですし。
乙武:安選手は車いすバスケ時代、海外でのプレーもたくさん経験されてきました。車いすフェンシングの話をする前に、当時のことを少しお聞きしてもいいですか。
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