さらに専業主婦で行き場のない百合子さんは、調停中でも、啓介のいるマイホームで、寝食をともにせざるをえなかった。親の反対を押し切って結婚した百合子さんにとって、実家に帰るという選択は毛頭なかったからだ。
「とにかく、調停中、家の中では気まずいですよね。『私の胸の内は全部調停員に話してありますから、話を聞いてきてください』そう言うしかない。家で話をしても離婚の話はしないようにしていました。夕飯の支度はするけれど、食事は別で、私だけトイレにこもったり、台所にこもったりして、やり過ごしていましたね。本当につらい日々でした」
まるで冷戦のような離婚の調停中、あまりのストレスから耳が聞こえなくなった。度重なる調停委員との話し合いの後に、夫が根負けする形で離婚が成立した。離婚当日のことを、百合子さんは今でも鮮明に覚えている。
2人でそろって、調停委員の前で離婚届にサインした。特に取り乱した様子もなく、静かに淡々と作業を進める夫。しかし、横目で様子を窺うと、これまでに見たことがないほど悲痛な表情を浮かべていた。その感情が痛いほどに伝わってきて、涙がボロボロ出てきた。
「あれだけ、離婚したいと言ってたのに、いざ離婚となると、体の半分が引きちぎられるような感覚が襲ってきたんです。夫のことを心の底から憎かったわけじゃないし、私が依存している部分もあった。今でも、なんでこうなったんだろうという思いが強いんです。あのときのことを思い出すと、今でも涙が出そうになります。確かにやっと解放されるという安心感もあったんですが、それよりも、とにかく悲しかった。離婚は、結婚よりも何十倍もエネルギーを使いましたね。でも後悔はないです。とにかく悲しかったですね」
当時のことを鮮明に思い出すと、こみ上げてくるものがあったのか、百合子さんはハンカチでとめどなくあふれ出る涙をぬぐった。
私はもう自由なんだ、と思う半面、20年連れ添った男を見捨てたという罪悪感に襲われ、胸が苦しくてたまらなかった。離婚が成立したのは、百合子さんが、42歳のときだった。
結局、調停の結果、4人目の子供でまだ幼かった娘だけ自分が引き取ることになった。長男は20歳を超えていたし、三男も中学3年生。男の子たちは、父親と向き合うべきだ、そう感じた。
何とかして、おカネを稼がなくては――。そう思った百合子さんは、家を出て、他県に移り、新聞配達員として5年間、がむしゃらに働いた。娘との生活を成り立たせるために、仕事を選んではいられなかった。しかし、働くことによって少しずつ、世の中の仕組みが見えてきた。
元夫と、子供たちとの不思議な共同生活
自立した生活を送り始めていた頃、夫の元にいた子供たちにどうしても家に帰ってきてほしいと懇願された。「お父さん変わったよ、とても弱ってる。だから帰ってきて、面倒を見てほしい」子供たちは、異口同音にそう言った。自分にとっては、もはや啓介は他人だが、子供たちには父親であることには変わりなかった。あまりの子供たちの真剣な勢いに断りきれずに、考えに考えた末、家に戻った。
元夫と、子供たちとの不思議な共同生活が始まった。
あんなに昔は恐怖心を抱いていた元夫だったのに、5年ぶりに会うと、頭には白いものが多くなっていた。信じられないくらいに、性格もめっきりと弱く、優しくなっていた。何よりも、百合子さんを支配しようという態度もすっかり影を潜めていた。
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