『竹取物語』との関係が深い富士山がまつられている浅間神社では、創建の由来を伝える「縁起」と呼ばれる書物が保管されている。そこには、遠い国に住んでいる姫様の話が記されており、その物語こそが『竹取物語』の前編だとする説がある。浅間神社の伝説に登場する姫様が犯した罪というのは、とある王子と結ばれる約束をしていたにもかかわらず、別の男の子どもを身ごもったというものだ。
昔の日本では色気全開の風潮があって、色事に関して極めておおらかな雰囲気だったので、はたしてそれごときで罪に問われることがあったのか少し疑問だが、『源氏物語』や『伊勢物語』にも禁じられた恋をしてしまった主人公がしばらく都から離れるという有名なエピソードがある。ほかの作品でも同じようなストーリーが好んで使用されていることが多く、いわゆる「貴種流離」という確立したジャンルがあるぐらいだ。
源氏の君も昔男も行った先々で次々と女に手を出して盛大に楽しんでいるようだし、全然罰になっていないのではと思わざるをえないけれど、一応罪を償っているということになっているらしい。そのような物語の系譜が古くから存在していることもあり、かぐや姫の罪も恋愛に関するものだったというのは理にかなっている。
月に帰ったかぐや姫はきっとまた恋をする
こうした歴史を踏まえて、恋をしてしまった姫は罪を犯した罰として地球に送られ、地球上にいる間に罪を償いながら成長していく、という図式が考えられる。では、かぐや姫が5人の求婚者の経験と帝とのやり取りで何を学んだかというと……男はうそつきであるという教訓だ。器が小さい男ほどうそが大きく、強引な側面があるから自分の身を自分で守るのだ、としっかり頭にたたき込み、姫は簡単にだまされるような女からは卒業する。
しかし、よく考えると、月の都に戻るときに彼女はすべての記憶を失い、人間として学んだことは全部頭の中から吹っ飛んでしまうわけである。しかも、月の都の人たちは年を取らないそうで、地球上で過ごした時間がまるでなかったことになれば、それはまったく罰にならないのではないか、という矛盾に気づく。
ではこの成長物語のような、貴種流離物語のような、童話のような、深い心理小説のような、謎だらけの物語の根底には何があるのだろうか。
かぐや姫は月の都に戻ると普通の女に戻ってしまうので、また罪を犯して恋をするのではないか、と私は思う。せっかくうそを見抜く能力を身に付けたのに、それを忘れてまた甘い言葉に耳を傾けてしまうのではないか。愛を遠ざけて人間としての短い人生を歩んだ姫は、恋に目覚める可能性を秘めて再び月で新たな道を切り開くのだ。
……姫の消息についてあれこれを妄想しながら、ベランダに置きっぱなしの洗濯カゴを照らしている月を見上げながら、ふと自分の理性も吹っ飛んでしまっていたことに気づく。これも月のせいだ。とうの昔にそれを見抜いていた作者不詳の洞察力は本当にスゴい。そして永遠に使える万能な「言い訳」を下さったことに心から感謝する。
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