ネットの世界でどう生きていくか
閑歳:転職のきっかけは、2004年にSNSのorkut(オーカット) が出てきたことかな。それを見て、衝撃を受けました。他人のマイページを見られるようになっていたんです。今では当たり前ですけど、2000年に自分たちが大学で作ったSNSは、ツイッターみたいな機能やグループ機能はありましたが、ほかの人のプロフィールが閲覧できる設計にはなっていませんでした。マイページはいわゆる「管理画面」で、自分以外には見られないという私の思い込みが覆されていました。
そのあと、GREEやmixiが出てきて、ネットがさらに面白くなってきた。やっぱり私はインターネットが大好きで、記事を書く仕事を続けるより、自分で何かそういうサービスを作る仕事がしたいという気持ちが強くなりました。でもそのとき、記者になって3年が経っていました。プログラミングのコードを書く技術もないし、ネットの会社にこれから行っても広報とか支援業務の担当になってしまう。エンジニアは目指せないし、自分がもうネットの世界で仕事をすることは難しいのでは?と悩みました。
仲:どうしてエンジニアじゃだめなんですか?
閑歳:技術力ではまず勝負できないからです。さっき話にも出た、大学時代にすご腕エンジニアのコードを目の当たりして、絶対こういう風にはなれない、自分にはこの方向の才能はないと痛感しました。だけど、こういう人と組んで、何か作ることはできるんじゃないかと考えていました。とはいえ、それが何と呼ばれている職業なのかわからなくて、採用に応募もできない状態でした。募集されているのは、エンジニアや営業などのいわゆる技術があって、即戦力になるような職種でしたから。
仲:今で言うと何ていうポジションになるんでしょうね。
閑歳:いまだにわからないかも(笑)。そんなときに、大学時代の同級生が経営しているネットベンチャーの会社から誘われました。技術的なことは何もできない私を拾ってくれるのかとうれしくなって、入りました。
仲:でもお誘いがあったってことは、何かがきっかけで買われたっていうことですよね?
閑歳:あるとき、急にその会社から連絡が来ました。プロジェクトのアドバイスをしてほしいという内容でした。たぶん大学時代に学内SNSを作っていたということと、それで大学の賞をとっていたから、周りの人が私のことを知っていたみたいですね。
仲:やっぱり学生時代にやったことが生きていたんですね。その会社には、どういった役割で入ったんですか。
閑歳:そのネットベンチャーは、受託事業が多かったので、受託事業のディレクションをやっていました。実際の仕事は手を動かすプロジェクトマネジャー、みたいな感じですね。そのうち、自社でパッケージサービスを作ろうということになって、エンジニアと2人でブログとSNSのパッケージ商品を作るようになりました。
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