制度導入前には財源が大きな問題だった。人口1億2000万人に月10万エンを支給するとなれば年間144兆エンが必要となる。所得税の仕組みががらりと変えられ、控除は一切なく、所得に対して一律に35%が課税されることになった。
これにより所得税収は従来に比べ80兆エン強増えた。年金、生活保護、児童手当、雇用保険の全部または一部廃止や関連行政コスト削減などで40兆エンを超える支出が削減され、それでもまだ20兆エンほどが不足したが、政府はそれを新規の貨幣発行で賄った。
それでは1万エン札20億枚をヘリコプターからばらまくようなものだという批判がなされたが、当時この国は深刻なデフレーションに陥っており、中央銀行は毎年80兆エンものペースで貨幣供給量を増やしていた。その一部をベーシック・インカムにまわせばいいだけのことなのだ。
そのころ中央銀行は貨幣発行増加の方法の1つとして年に6兆エン上場株式投資信託を購入していたが、株価を吊り上げて実質的に資産家を優遇しているとの強い批判があった。しかしそれをやめてベーシック・インカムに置き換えることでそんな批判も消えた。低所得者に支給されたおカネは貯蓄されず消費されやすいのでデフレーションの問題も解消に向かった。
将来のインフレーションの心配をすべきとの声が増えていったが、20兆エンといえばこの国のGDPの4%ほどにすぎないので、物価上昇率が2%でGDPが2%程度の速度で成長すると考えれば、適度な貨幣供給量の増加ということができる。
僕はすぐに上司に辞表を提出した
ベーシック・インカム制度の導入が決まったとき、僕は飛び上がって喜んだ。これで会社を辞められる、好きなだけ書くことができる、ついに作家になることができる。そう思ったのだ。妻と子ども2人で家計としては月に40万エンがもらえる。ぜいたくをしなければ十分に暮らしていける額だ。
制度が公布され、僕はすぐに上司に辞表を提出した。
妻に会社を辞めると告げたのは辞表を出す前日の夜だった。妻は一瞬驚いた顔をしたけれども、月に40万エンが支給されるという話をしたら、「あなたがそう決めたのならば、いいんじゃないの」と、あっさりと同意してくれた。猛烈に怒るかもしれないと思っていた僕はひそかに安堵の吐息をついた。
そうして僕は小説を書き始めた。
朝から深夜まで書斎にこもり、ただひたすら書き続けていればよかった。大学を出てから10年間あこがれていた生活が始まったのだ。なにしろ10年間書きたくても書けなかったのだから、題材があり、話の筋もおおむね出来上がっている。すぐに長編2本を書き上げ、いくつかの短編も仕上げた。
やりたいことがあり、そのための時間もあり、暮らすためのおカネにも困らない。僕は幸せだった。
僕は妻に大仰に言った。
「才能ある人間が才能と関係のない仕事につかなければならない社会には大いなる無駄があるね。ベーシック・インカムのおかげでこの社会は大いに発展するよ」
妻は、「そうね」と、柳が風を受け流すようにほほ笑んだ。
ところが――
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