それから1年後、久しぶりに長編小説を書き上げた。この本はおもしろいと断言できる自信作である。
その日の夕食、わが家にしては値の張るワインで妻とささやかな祝杯をあげた。
ほおを赤らめ僕以上に上機嫌な妻が言った。
「お祝いに家族で旅行に行きましょうよ。ハワイがいいな。思いきって10日間くらい」
僕も笑顔で、「おいおい、うちにそんなおカネはないよ。仮に本が売れたとしても、印税が入るのはずっと先だし。気が早すぎるよ」と言った。
そしてちょっと上目づかいになって、「それにきみ。10日間って、習い事をいくつも休まなくちゃならなくなるよ」と、意地の悪い気持ちで言ってみた。
「いいの。習いごと、辞めるから」
「えっ、なにそれ」と驚くと、「いいのよ。大してやりたかったわけでもないし」と、妻は平然と言った。
「いや、いや、いや。僕はきみの習い事のために――」と、恩着せがましいことばを吐きそうになったが、中途でやめた。妻は構わずに、「よかったね。書けるようになって」と笑って言った。
ふつうは1時間数千エン
「うん。もしきみの習い事がなかったら、あのままだったかもしれない」
そういった僕はふと思いつき、「いや、ちょっと待て。きみはひょっとして、僕のために…」
妻は僕の言葉を遮って、「ね、ハワイにしましょうよ。久しぶりの家族旅行。楽しみ」と、はしゃいだ。
「だから、残念ながらいまはおカネがないよ。もう少し先にしようよ」
「あるわよ。おカネなら。大丈夫」
「いや、そんなはずは。わが家の貯金は1時間数千エンのきみの習い事によって…」僕は目を瞬いて、「まさか、習いごとに通っていたっていうのはうそなのか」
妻はにこりと笑い、こう言った。
「通っていたわよ。でも、1時間数千エンなんて払っていないわよ。近所の奥さんがボランティアで教えてくれているの。あなたが『いくらくらいかかるのか』って訊くから『ふつうは1時間数千エン』って答えたけど、それを払っているとは言わなかったわ」
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