やがてシェルターを出た鳥居は、里親に引き取られたが、体が弱かったため、追い出される羽目に。祖母も亡くなっており、帰る家もなくなった鳥居は、ホームレス生活を余儀なくされる。昼はデパートのソファなどで睡眠をとり、夜は不審者に絡まれないよう、散歩のふりをして歩き続けた。菓子パン1つやポテトチップ1袋が数日間の食料になり、後はひたすら水を飲んで空腹を紛らわせた。
そんな日々を2カ月ほど送った後、保証人不要・外国人専用の格安物件に何とか入居できた。ようやく生活が落ち着いた鳥居は、感銘を受けた歌人・吉川宏志さんに、自分の生い立ちを手紙にしたためて送った。当時のことを、吉川さんは後にこう振り返っている。
「鳥居さんからもらった手紙には、『死にたい』などと書いてありました。ビックリしたし、心配もして、何でもいいから自分を表現したほうがいい、と返事を書いたんです。すると何年後かに、短歌を始めたというメールが鳥居さんから来て。
そのときにもらった歌に衝撃を受けました。こんな歌を作れる人がいるんだ、何とかして短歌の世界に広めたい、と思いましたね」(第61回現代歌人協会賞・授賞式の祝辞コメントにて)
そのときの歌は、鳥居が入院していた精神病院での一場面を詠んだものである。
「鳥居」というペンネームの理由
それから鳥居は、ほぼ独学で短歌をつくっていった。1週間に数百首つくったこともあるという。この頃から、彼女は「鳥居」というペンネームを使うようになった。鳥居とは、神の世界と人間の世界をつなぐ結界である。現実と非現実、2つの世界の境界を越え、自由に行き来できるような力を短歌に宿したい。同時に年齢や性別を超える存在になりたい、という思いが込められている。
鳥居は歌人として、着実に力をつけていった。2012年、「全国短歌大会」に応募したところ、3000人以上の応募の中から、鳥居の一首が穂村弘選の佳作に選ばれた。2013年には「第3回路上文学賞」の大賞、2014年には「第6回中条ふみ子賞」の候補作になった。
一方で、短歌を広めるための活動も始めた。2012年に大阪の梅田駅で、「生きづらいなら短歌を詠もう」と書いた段ボールを掲げ、道行く人に短歌の魅力を訴えかけた。食費を削り、短歌の面白さを書いたビラを印刷して、街行く人に配りもした。
紀伊國屋書店グランフロント大阪店で短歌フェアを開催しているのを見つけると、「手伝わせてほしい」と名乗り出て、ポップをつくらせてもらった。書店側に協力してもらい、短歌の魅力を伝える講演会もさせてもらったという。そういった行動の原動力には、鳥居の短歌への愛情と、歌人の置かれる不遇な現状があった。
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