対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ 86年前、なぜ日本は「暴走」したのか
理由3:自らつくった世論に押し流された
先述したように満州事変は快挙であり、満州は日本の生命線であると新聞は報じ、国民はそれに歓喜した。軍も政府も、そうした世論を半ば追認し、半ば自らあおって対外政策を進めてきた。
満州国の実態については、ファクトを隠し、夢のある話や景気のよいスローガンばかりを流して世論をつくり、国民をリードしてきた手前、いまさら満州国は赤字で手放したほうが国際社会との関係も改善できるとは言えなくなっていたのだ。
国内には満州経営の不合理を見抜く識者もいた。当時の政府中枢周辺にも、湛山のような忠告をしてくれる人はいたはずである。しかし、そうした識者の意見は世論の勢いにかき消され、政策に反映されることはなかった。
世論をつくり、世論によって政治を進める手法は今日でも見られる。われわれは世論調査の支持率に目を向けるばかりでなく、世論調査の背景や世論の行き着く先についても注意を払うべきである。世論とは、一方で危ういものであるということも満州事変の教訓といえる。
力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる
先述したとおり、戦争体験者が日本の現状を危惧する背景には、形は違えど北朝鮮に対する日本や中国の対応が戦前を彷彿とさせるからだろう。
北朝鮮のミサイルと核は由々しき問題であるが、『戦争の大問題』で述べているように、問題を力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる。それが先の大戦を体験した先人たちが、身をもってわれわれに教えてくれたことだ。
北朝鮮に対しては圧力と制裁をもって臨むべきという意見が多い。かつて「対話と圧力」と言っていた人物まで、対話を忘れたかのように圧力と制裁が必要と繰り返している。確かに弾道ミサイルと核実験を繰り返す北朝鮮相手には、対話は手ぬるいように思えることもある。北朝鮮は周辺国に対して挑発的な態度を取り続け、対話のムードはみじんもない。われわれは、北朝鮮は言葉で言ってわかるような相手ではないと見限りがちだ。
しかし、そもそも利害の対立する両国で、初めから意見が一致しているはずがない。言ってわからない相手は、力で懲らしめるというのでは、満州事変から日中戦争へと進んでいったときの日本人の意識にほかならない。意見の違いを乗り越え、妥協点を見いだすのが対話の目的である。初めから言ってわからない相手と見下していては、対話は成り立たない。
お互いが相手を物わかりの悪い、話にならない国民と見下して、対話のための努力を放棄したのは戦前の姿そのものである。世論もそれに同調した。戦前の新聞紙面に躍った「不法背信暴戻止まるところを知らぬ」の文言や「膺懲」という文字は今日の新聞にはないが、論調はどこか似通っている。
私は、仮にも2500万人の国民を率いるリーダーが、対話もできないような野蛮人ということはありえないと思っている。対話する余地があるのに相手に“力”をかけ、窮鼠(きゅうそ)に追い込み対話を放棄することは、とても危険なことである。
日本は戦前の轍を踏んではならない。力対力は決して選んではいけない。日本人は、なぜ戦争が起こるのか、なぜ戦争を終わらせることが難しいのか、満州事変から終戦までの歴史をもう一度振り返る必要がある。それが、86年前に満州事変が起きた今日9月18日に、私が言いたいことである。
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