新聞記者→作家になった男が味わったどん底 封印作品の謎に挑みフリーから再び正社員に

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転機は2年目に訪れる。上司から「修業をしてこい」とさいたま総局への異動を命じられ、ようやく記者として活動できるようになった。いろいろなところを取材して記事を書く楽しさを味わい、華の時代だったと振り返る。しかし、ここで後々まで引きずる苦い経験をすることになる。

2002年、埼玉県は当時猛威を振るっていた病原性大腸菌O157の感染の予防を目的として、教育ソフト「O157予防ゲーム(仮)」を作って県内の教育機関に配布しようとしていた。デザインは県内の美少女ゲームメーカーが担当し、登場するキャラクターも18禁ゲームからの流用だった。現場では誰もがそれを承知していたが、安藤さんが書いた記事が発端となって県民に問題視されるようになり、ついには県が監修を降りる事態に発展してしまう。

「記事では18禁であることは伏せましたが、自分の記事がきっかけでヘンに目立ってしまったのは確かです。ゲーム自体は制作側が単独販売にこぎ着けましたが、情報を封印することに反発してサイトを立ち上げた自分が封印を助長する側に回ってしまったことがショックでしたね」

「O157予防ゲーム(仮)」のエピソードは、処女作『封印作品の謎』の最終章にまとめられている(撮影筆者)

これ以降、封印作品について調べる意識を強く持つようになる。会社勤めをしながらこのテーマで本が出せたら最高だ、と。

2年半の地方記者生活を経て、2003年には元の部署に戻された。再び退屈な日々。「反動!」はすでに活動停止していたが、今は別のライフワークがある。企画を太田出版に持ち込んだところ、色よい返事がもらえた。泊まり勤務の翌日は封印作品の取材に使い、スキマ時間はひたすら執筆に充て、この時期に『ウルトラセブン』の封印回である「遊星より愛をこめて」の章を書き上げている。

どう頑張っても両立はできない

心は充実していたが、余力以上の精力を注いだことで、本業ではミスが目立つようになってきた。上司からにらまれるようになり、最終的に人事部に異動させられてしまう。仕事の内容は記事からより遠くなり、泊まり勤務もなくなって平日に取材することもできなくなった。執筆計画も暗礁に乗り上げ、ストレスからくる発熱で寝込むこともあった。

「どう頑張っても両立はできない。ここではじめて、本をあきらめて会社員を続けるか、会社員をあきらめて本を取るかの二択になりました。それで、ここまで書いたんだし、人生勝負に出ようと後者を選んだかたちです」

直前まで会社を辞める気がなかったため、独立のための貯金などしていない。退職金もいまの勤続年数では2万円しか入らないらしい。ただ、クルマを売ったおカネなどでたまたま手元に160万円ほどあり、「節約すれば20万円で8カ月暮らせる」と算段できた。

辞意は誰にも相談せずに決めた。したことは報告だけだ。両親や同僚からは強く反対され、太田出版の編集者からは「え! 辞めちゃったの!?」と驚かれた。しかし、もう後には引けない。新聞社を去った2004年2月からの8カ月は取材と執筆にのめり込んだ。子どもの頃から本を執筆することにあこがれがあったし、類書のない本でヒットする自信はあった。そして何より、8カ月でアウトプットしないと何者でもなく終わるという怖さが胸にあった。

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