新聞記者→作家になった男が味わったどん底 封印作品の謎に挑みフリーから再び正社員に

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この期間は、『ドラえもん』の単行本をすり切れるほど読んだマンガ好きな少年にとって「冬の時代」でしかなかったようだ。「仲のいいクラスメートはいましたが、マンガや音楽などの趣味が合う友達は少なくて寂しかったですね。女子校とコンパするグループもいましたけど、そっちには入れませんでした」。

春はキャンパスライフとともにやってくる。第2志望で受けた早稲田大学に入り、1980年代テクノポップやマンガなどのサブカルチャーについて話し込める仲間にようやく出会えた。東大に落ちたことでむしろ肩の荷が下り、広がっていく視野で世の中を眺めながら、将来は社会学の研究者になりたいと漠然と思うようになっていった。世間が酒鬼薔薇聖斗という猟奇殺人の犯人の話題で持ちきりになったのはその頃(1997年5月~)だ。

情報の封印に芽生えた疑問

パソコンには小学生の頃から触れており、ネットもパソコン通信を経て黎明期から親しんできた口だ

当時未成年である犯人の顔写真や実名を載せた写真週刊誌は流通拒否に遭っていた。安藤さんはそこに疑問を感じ、どうにか週刊誌を入手し、自らホームページを立ち上げてコピーした顔写真を公開。ネットで発見した実名も一緒に掲載した。

ホームページの名前は「反動!」という。すぐにアングラ掲示板で目をつけられ、所属大学や住所などがさらされたが、2週間しないうちにサーバーからの削除指示が届くまではこちらもさらし続けた。

その後も「反動!」は少年法やプライバシーについて論議する場として存続し、いつしかアングラ掲示板の住人とも盛んに交流するようになっていた。ネットで起きていることを取材する記者になりたい。大学3年の就職活動の時期を迎えた頃、社会学の研究者という夢の隣にそんな思いがうっすらと浮かぶようになっていた。そして、産経新聞社にエントリーしたところ内定がとれた。

「履歴書にもURLを載せていましたが、面接で聞かれることはなかったですね。また2000年にもなっていない時代で、インターネットがどういうものかあんまりわかっていなかったんでしょう」

産経新聞社に入ると、できたばかりのデジタルメディアを扱う部署に配属された。しかし、思い描いていた取材の機会はなく、待っていたのは、ひたすら紙面用の記事をコピー&ペーストしてサーバーにアップしていく単純作業だった。

ネットの優先順位が紙のはるか下だった時代だ。新入社員の希望や提案など通るべくもない。趣味でやっているアングラ掲示板の管理などで気を紛らわしながら、退屈なデスクワークをこなす日々は2年以上続いた。

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